臆病な自尊心

 ある伝統ある大学の外科教室では、「先生」と呼んでいいのはその大学で教授になった人だけなのだそうです。それ以外は上司なら「さん」、後輩は「君」と呼ぶのが慣わし。それ自体はまあ、別にいいんじゃないかと思います。

 でも、そのお話を自分の教室や大学内でするならまだしも、別の大学の教室に呼ばれて出向いて話すのは、どういう心境なんだろうな、と思うのです。彼らの慣習によれば、そこには「先生」と呼ぶべき人はいないのです。自分を招いてくれた、もともとは自分の教室出身で、地方大学の教授に収まっているその人のことは一応「先生」と呼びかけていましたが、講演中に「先生と呼ぶべき人」として数えた中には当然入っていません。

 講演した人間も、そして地方大学の教授となりながら、自分のルーツを高くみて、今いる組織をまるで属国かのように一段低くみている人間も、自分たちの教室が一番で、地方の教室はその下流にある、という大前提に乗っかった話をしているのだという、そういう尊大さにおそらく無自覚なんだと思います。「君たちも捨てたもんじゃないと思ったんだよ。この大学の人間もなかなか優秀だよ」というのが、彼らにとっては褒め言葉のつもりなんでしょうが、自ら望んでその地方大学の教室に入局した人間にとって、なぜ宗主国の高見のようなところからの視点で、属国へのお褒めの言葉を頂かなくてはならないのか理解に苦しみます。

 その昔、僕の母校で当時医学部長だったある教授が、学生たちのとある集まりの場で「君たちはこの大学に入ったことを恥じるべきでは無い。大きな組織の中で埋没してしまうのでは無く、こういう大学で自らが中心となって何かを引っ張っていく、中小企業を引っ張るような良さがあるはずだ」と。僕はなんと愚かな挨拶をする人間だ、と思ったものです。

 その会で、なぜだか僕を面白がり、気にかけていて下さった別の教授が、医学部長と一緒にいる場に僕を呼び、「この子はとても面白いんですよ」と紹介して下さいました。僕は愚かな挨拶にあきれていたので、医学部長にさして興味が無かったのですが、彼が自分から、挨拶についての感想を求めてきたので、「先生は、僕らが本当は別の大学に行きたかったのに、いろいろな事情でやむなくこの大学を選んだ、という前提でご挨拶されましたけれど、それはどういう事情なんでしょうか。少なくとも私はこの大学を第一志望として、自ら望んで入学しました。確かに偏差値がどうとか、大学の研究レベルがどうとかいう話になると、ほかの大学に負けるところはたくさんあるのでしょう。しかしながら、僕らは別にここを何か低いもの、やむを得ないものとして選んだというわけでは無いのだし、仮にも学部長という組織を代表される立場にありながら、自分達の組織を何か一段低いものだという前提でああいったお話をされるお気持ちというのが、僕には全く理解できませんし、極めて不愉快でした」と率直に申し上げたのでした。僕を呼びつけた教授はたいそう愉快げに笑っておられましたが、医学部長はそれに理性的な反論を述べるでもなく、ただ不愉快気にそこを去って行きました。

 もしくはそうした発言の根底にあるのが実は尊大さなどではなくて、李徴の曰く「臆病な自尊心」に過ぎず、そしてその言葉にくすぐられた聴衆は、「尊大な羞恥心」が頭をもたげて、本当はおかしな話に傾聴してしまうのでしょうか。僕にとってはろくでもない話なのに、「素晴らしいお話をありがとうございました」なんてやりとりしてるのを見ていると、いつかみんな虎になってしまうのではなかろうか、と思うのでした。