zaw.hatenablog.com
続きです。
2008年は9月に夏休みをとって、チェコへ行きました。深夜にテレビで流れていた古い映画のラストシーンで「チェコのビールはうまい」からチェコへ行こう、みたいなシーンがあって、そのイメージがずっと頭から離れず、一度チェコにビールを飲みに行ってみたいと思っていたのです。もはやその映画がなんだったのかは調べてもよくわからないのですが、もし何か思い当たる人がいたら教えてください。多分ヨーロッパあたりの古い映画で、おじさんたちがなにか問題を解決し、最後にチェコにビールを飲みに行こう、とか言って終わったような記憶です。
当時は燃油サーチャージがアホみたいに高かったのを記憶しています。パリまでJAL、そこから乗り継ぎでチェコ、だった気がします。到着した日は遅い時間だったので、ホテルのミニバーにあったビールを飲むくらいしかできなかったのですが、缶ビールでもとても美味しく感じ、あまり旅程を決めていなかった旅行でしたが、そのビールの美味しさの結果として、電車でプルゼニュまで行き、プルゼニュスキープラズドロイ(ピルスナーウルケル)の工場ツアーに参加したのでした。
あまり研究には向いていなかったらしく、大したこともしないまま四年が経過し、また、大学院生と言いつつ体よく大学病院の臨床にタダ働きで駆り出されることにもいろいろ思うところもありつつ、三月の卒業には間に合わなかったのですが、(一月のはじめころにアクセプトされた原著論文がなければ三月の卒業に間に合わないところを、舐めきって一月に投稿した論文が)ちょっと期限を過ぎてアクセプトされたので、六月には卒業見込みとなり、四月以降は「社会人大学院生」となることになり、また外科の常勤医の人事に戻されることになりました。当初、最も労働強度の高い大学に配置されそうになったのですが、結果としては、三月で卒業が確定しなかったことやその他の要因により、大学の外の関連病院に出ることになりました。
私は正直なところ、大学に残って出世を目指したい、というよりも、市中病院で臨床中心に働きたい、という希望を持っていたので、この人事はそういう意味ではラッキーだったのかも知れませんが、結果として二年ほど働くことになったこの異動先ではいろいろあり、手放しで喜べるものでも無かったのでした。
2009年の9月にはANAのマイルをうまいこと使うことに成功し、ルフトハンザのビジネスクラスを使って、ギリシャとドイツを旅行しました。マイレージのルールの中で、かつ、特典マイルで予約可能な旅程を選択した結果、ドイツから先の旅程が結構バカみたいな旅程となり、滞在先のミュンヘンからフランクフルト経由、セントレア行き、そこから成田まで、という発券でした。
アテネ→メテオラ→ミコノス島→ミュンヘン(オクトーバーフェスト)、というような旅程でした。メテオラはずっと行ってみたかった場所で、アテネから結構ながいこと鉄道に乗ってたどり着き、タクシーをチャーターして修道院をまわりました。ギリシャはまだ暑く、ミコノス島でも気持ちよく泳げましたが、ミュンヘンは肌寒く、短い日程で気候も大きく変わるのでそれなりにしんどい旅程だったように思います。ミュンヘンへはオクトーバーフェストの初日が絡む旅程となったため、せっかくなのでオープニングのパレードも見に行ったのですが、とにかくホテルがバカみたいに高騰しており、ホテルポイントを購入してポイントで宿泊する、という技を使って、若干安めに泊まることに成功しました。
2009年には母親がやや厄介な病気に罹患してしまい、なかなか休みが取りにくい外科勤務医としての生活について改めていろいろ考える時期でした。実家から母親がいろいろSOSを出してきても、なかなか直接の支援ができず、かなり思い悩む部分がありました。母の発病当時から、最期の時までのことを思い出すと、今でも心がざわざわしてしまい、もっと早く仕事に見切りをつけ、母のための時間をとるべきだったのではないか、ということをぐるぐると考えてしまうのです。
当時できるかぎり支援を行い、医局の同門の医師のつながりなどにも助けていただく機会もあったので、私が医師として働いていたことが役にたった部分も大いにあるので難しいところです。悪性リンパ腫に対しての治療で、一度寛解したものの、再発の可能性が常にある中で、元気なうちに何かできることをしたい、という気持ちもあり、2010年の夏休みには、両親を香港に連れて行くことにしました。母親のお世話になった方のお父様が香港で事業をしており、一度そこを訪ねてみたい、というような話があったので、もし私の夏休みとスケジュールがあうのであれば、一緒に行きましょう、という話となったのです。
この年、少し長めの夏休みがもらえたのと、色々あって東京にマンションを購入することになり、その本契約の署名や押印のために、東京の銀行にどこか平日に行かなくてはならなかったのを、夏休み以外で平日休みを取るのは難しいので夏休み中に済ませることとし、前半ベトナム旅行、帰ってきた足で東京の銀行へ行き、その後香港旅行へ、というまたおかしな旅程を組んだのでした。病院で入院患者を受け持っていると、どうしても病院にずっと縛られてしまい、土日すらまともには休みにくい中で、何でもない平日に休みを取るというのは相当にハードルが高いのです。そうは言っても、世の中には平日でないとできないこともたくさんあるし、世のほとんどの人は、平日に休みを取ることもできるんですよね。大学院修了後の二年間働いた病院は、関連病院の中でも比較的労働時間は短い施設ではあったものの、それでもやはり、休みを取るハードルは高く、外科勤務医の「とにかく休みが無い」「人と約束ができない」生活をずっと続けるのはやはり自分には無理なのではないか、と思い、身の振り方をいろいろと考えては思い悩んでいました。その他いろんな要因があり、メンタルがかなり削られていた時期で、睡眠障害もとてもひどく、うまく薬を使わないと、ほとんどまともな睡眠がとれなくなってしまい、かといって薬を使ってしまうと病院から夜中電話がかかってきても応答できなくなってしまうため、どうしたものとかと考えるものの、解決策を見いだせなかったのでした。
旅行のことだけ書こうと思っていたのですが、まあ、どうしてもその当時のことを振り返ると、その時にあったいろんなこととか、その時の思いとかが一緒に蘇ってきてしまいますね。大学院終わってから、医局を辞めるまでの四年間は、結構辛いことが多く、メンタルも相当にやられていた時期なので、当時の何かのエピソードを振り返ると、どうしても負の思い出がわらわらとまとわりついてきてしまうようです。なので、また一度区切りたいと思います。
ガラケーを持って旅行していた
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しばらく間があきましたが続きです。
2006年にはマカオに旅行しました。2002年にそれまでのスタンレー・ホー氏の財閥のカジノ独占が終わり、国際資本が入り始め、マカオは大きく変貌していきました。まあ、変貌前のマカオは実際に見たことはなく、深夜特急の中の世界しか知らなかったんですけれども。香港まで飛行機で飛び、香港に入国せず、トランジット扱いのフェリーに乗りマカオへ行く、という手段でマカオ入りしました。まあ今となっては香港からマカオまでは海上橋が開通しており(2018年10月24日港珠澳大橋が開通)、バスで行けるらしいですね。
このときはできたばかりのウィンに宿泊しました。この頃のマカオでは、まだドッグレースも開催されていましたが、2018年に終了してしまったようですね。マカオ旅行についても、当時はてなにいろいろ書いていました。まあ20年も前の話なので、これから旅行する人の参考にはならないと思いますが。
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2007年に台湾へ短い旅行、これも当時はまだたまに増減がないと消えてしまうデルタのスカイマイルを使って旅行したように記憶しています。大学院三年目の年で、ベッドフリーでいられるのも残りわずか、この機を逃すと、また気軽に海外旅行なんて行けなくなってしまうというような思いもあり、無駄に焦っていた時期のように記憶しています。台湾旅行もはてなにいろいろ書いておりました。
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大学院生の期間もまあ結局はいろいろ外来とか手術とか検査とかタダ働きさせられてはいたのですが、正規の病院職員では無かったので、主治医として入院患者を直接受け持つことはありませんでした。この時代以外は、常に受け持ち患者さんのあれこれとか、急患や緊急手術の対応を求められるため、しっかりした休みというものが存在せず、唯一夏休みだけ一週間程度もらえる、という生活でした。しかしながら、この年、いろんな都合上あまりよいタイミングで夏休みをとる調整ができず、JALかなんかのあまったマイルで上海行きのチケットをとり、仙台での学会から帰った足そのまま(仙台出張の荷物を持ったまま)で、上海に短い旅行をしたのでした。この時代はまだ特段の準備をしなくてもgoogleのサービスにも接続できたし、QRコード決済普及以前(だったので、現金決済が普通でした。というかまだスマホ普及以前でしたしね。日本ではiPhone 3Gが2008年に発売、私の周辺ではなぜか放射線科医がこぞってこれを持ち始めたのですが、まんまと影響され、私も2009年の2月に当時はソフトバンク契約でしか持てなかったiPhoneを購入し、ガラケーと2台持ちを始めたのでした。
当然ながら上記の海外旅行は全てガラケーしか持っていなかった時代の話です。今となっては海外旅行中もスマホだよりなところもありますが、便利になった反面、中国旅行に際しては、ネット規制対策やキャッシュレス決済まわりを準備していかないといろいろ詰んでしまうのが面倒といえば面倒ですね。まあこれ以降、しばらく中国大陸に旅行する機会は発生しなかったのですが。
また一旦ここで切ります。
父を見送る
少し前に父が亡くなりました。もう長いこと施設とか病院とかにお世話になっていたので、いつかその日を迎えることは分かってはいたのですが、これで両親とも見送ることになったことを思うと、寂しさはあります。父との関係性という部分では、いろいろとうまく行っていない部分もあり、複雑な思いもあるのが正直なところではありますが、そうした複雑な思いを抱えながらも、お陰様で一時帰国することもでき、滞り無く葬儀を終えることができました。
母を見送った際には、日本におりましたし、実家も使える状態でした。また、大学医局を辞めて、一時的にかなり仕事をセーブすることになったので、いろいろと余裕を持って物事を進めることができました。それでもなお、相続の手続きなどで時間がかかる部分はあり、それなりに労力を要したことはよく覚えています。
今回はそもそも私が日本に住んでいないということで、様々な手続きがより面倒なことになることはわかっており、母を見送った際の様々な記憶も踏まえて、いろいろと事前の頭の体操をしていたところではあります。不謹慎と思われる方もいるかも知れませんが、いざというときにそもそもすぐに一時帰国できる保証も無く、限られた帰国のタイミングで相続にまつわるあれこれを可能な限り進めなくてはならないわけで、日本にいる弟とは、ある程度いざという時にどう動くべきかについてはよく話しあっていました。
結果としては、日本にいる弟を通じてテレビ電話で繋いでもらって、お見舞いであるとか必要な打ち合わせに参加することもでき、通夜に間に合うように帰国することも叶いましたので、あまり心に引っかかりを残さないように、すべきことはある程度できたのかな、とは思っています。
父にはそれほど財産があるわけではない一方で、実家の不動産の相続などもしなければならず、この点では母の相続の時よりいろいろと複雑なプロセスを踏む必要がありました。日本に住民票がないと印鑑証明も登録できず、一応海外在住社向けの「サイン証明」という方法があるにはあるのですが、「印鑑証明」に比べると手続きが煩雑だったり、2種類あるうちの「単独型」だと特に不動産登記などで有効な証明と認めてもらえず、サインが必要な書類自体に割印を押して、その署名が本人のものであると個別に証明してもらう「一体型」の形式で準備することが求められることが多いというような事情もあり、なかなかに面倒なことになってしまいます。これは、居住の実態がどうなるのかとか、いろいろな状況を踏まえて判断しなければならないものになるとは思いますが、一度日本に住民票を戻すことが可能なのであれば、帰国して住民登録し、印鑑証明を登録するのが一番確実でわかりやすい方法になるのだろう、とは思います。日本に住民票がないと、日本国内の様々な手続きが滞るので、多くの海外在住邦人が苦労しているものと思います。このあたり、もう少しなんとかならないものかとずっと思っています。
ちなみに今回、父の除籍の反映に時間がかかり、さらにはあまり深く考えず、自身の名の「フリガナ」を登録する手続きなども行ってしまったことで、戸籍謄本とるのに非常に時間がかかることになってしまいました。そもそも、戸籍に何らかの届け出を行うと、それが反映されるまで旧情報での戸籍謄本もとれず、ロックがかかってしまうということを知識として持ち合わせていませんでした。下手すると数週間ロックされるようです。海外在住者としては、この件について、ロックかかってしまったタイミングで、例えば海外でパスポート無くして再発給とか帰国のための渡航書とか出してもらいたいときなど、かなり困るように思い、非常に気になりました。まあ、戸籍になにか手続きをする機会なんて限られているので、よほどいろんなタイミングが重ならないと発生しないことではあるのですが。
さて、法定相続人のうち一人でも変な人がいると、相続手続き全く進まなくなるわけですので、私の場合は特に揉めることが無かったのは非常にありがたいことだと思っています。少し前に旧twitterに流れてきた、ある放送作家の相続に関する背筋が凍るようなnoteとか読んだけど、ああいうの見ちゃうと、改めて自分は幸運だったな、とつくづく思います。
まだ手続きが終わっていないことがちょっとありますが、大きな部分はなんとか目処がついたかな、と思います。あと何度か可能なら一時帰国が必要そうではあるのですが、ホルムズ海峡の問題などで、航空賃やら燃油サーチャージやら軒並み上昇していてなかなかにしんどいですね。あと、決まった任期というのがあるわけではないのですが、標準的な期間を踏まえると、ぼちぼち異動があるかも知れないので、そのタイミングや異動先次第で、今後の動きやすさが相当かわってきます。あまり人事に関して希望を出して来なかった私ですが、今回は父が亡くなったことに関連して、私が今後やらなければならないことを踏まえ、多少人事上配慮してほしい、というお願いは然るべきところに伝えました。近いうちになんらかの回答がある見込み、とのことですが、現状よくわかりません。貸主の力が強大で、契約期間が絶対的、という現状のアパート契約について、ぼちぼち退去もしくは更新の意思表示をしなければならないので、せめて異動の時期の目安についてだけでも早めに教えてくれ、と申し入れているところです。いろいろと落ち着かないですね…
令和八年
年が明けましたね。昭和に生まれ平成に育ち、何度も書いたように大学卒業後くらいから時間の感覚が大きくバグってよくわからなくなってしまったのですが、令和の時代もおよそ七年も経過したのかと思うと数字として時間が流れているということは理解はするのです。
生活のベースが日本にある場合、年越しを海外で、といって盛り上がることもあるのかも知れませんが、海外生活がベースになってしまうと、むしろ日本で年越しをしたいと思う人も多いのではないかと思います。日本のお正月の特別感は海外ではあんまり感じられないので、帰れるならなるべく帰りたいと思っています。年末年始の日本往復フライトはどうしても高くはなるのですが、いつ帰るか、ということも大切なので、財布と相談しながら支払う価値があると思えば変にケチらず帰国できれば、という心境です。とかいいながら、ダイナミックプライシング全盛のこの時代、そうはいっても毎日フライト価格とにらめっこし、帰国の日付をちょっとずつずらしながらほどよいところを見つけたりはするのですが。
そんなに長い休みはとれなかった、と言いながら、日本での勤務医時代を振り返ると、そもそも夏休み以外にまともな休みはほぼなく、世間が休みとなる時期も病棟当番だ当直だと仕事が発生し、かといってそのかわりにどこかで休めるわけでもない…という生活だったわけで、それに比べれば天国のような連休をもらって帰国したのでした。日本での勤務医時代には、日本で生活してはいたものの、当直病院で年を越すということも非常に多くて、日本のお正月の特別感をきちんと味わえていたかというとそんなこともなかったのかも知れません。今の仕事をはじめてからのほうが休みは取りやすく、世間のお休みを世間の人と同様に楽しめるようになったことはこの上ない幸せです。勤務医時代にまともにお正月を楽しめなかったことや、COVID-19流行期、日本入国後の長期の隔離があった時期に一時帰国を断念したことなどもあって、より可能な限り一時帰国したいという思いが強くなったのかも知れません。
あとは、自分の人生の終わりを以前よりも強く意識するようになった、ということもあるのかも知れません。母親は60歳を迎えることなくこの世を去りました。母方の親族は、同様に長寿社会となった現代の感覚からは短命であった方が他にもいます。自分はもっと長生きできるかどうかは誰にもわからず、仮に母と同じ年でこの世を去らなければならないとすれば、あと何年も生きられないわけで、より大切に人生を過ごしていきたいな、と思っています。
いろいろあって無人になってしまっている実家があまり管理できておらず、ずっと胸に引っかかっているのですが、自分もそれなりに長い時間を過ごした家を、どこかのタイミングではなんらかの整理をしなくてはならないのだろう、と考えています。海外生活がメインとなった現在、実家に限らず、私自身の日本の家も、時折弟に様子をみてもらっているとは言え、あまり管理できていないという意味では実家と大差ありません。実家のように手がつけられなくなる前に、自宅の物をもう少し減らすなど、整理しておいたほうがいいのかな、などとふとした瞬間にいろいろ考え始めてしまい、かといってすぐにどうにかできるものでもなく、もどかしく不毛なことをぐるぐる考えてしまったりするのです。
年末にちょっとだけ弟が実家の様子を見に立ち寄った際、なんだか家の中が荒れていた、という話を正月にきいたのです。弟は、地震などのせいかも知れない、というのですが、話を聞く限り地震だけではどうにも説明がつかないような荒れ方のようだったので、このまま任国に戻ってもずっともやもやしてしまうと思い、任国に戻る前の日に急遽実家に行くことにしたのです。車がないと不便な地域かつ、実家周辺にはレンタカーを借りられる場所があまり多くないこともあり、今回は東京からレンタカーで行くことにしました。一部の物を東京に持ち帰れれば、という腹積もりもあったのです。電車で行くとどうしても持ち帰れる荷物には限界があるので…。
結果としてリビングの窓が割られ、明らかに侵入された形跡があったので、警察に相談したところ、捜査はさせて欲しいとのことで、警察官2名に来ていただき、記録を残していただきました。そもそもあんまり貴重品がない家なので、おそらく物をひっくり返すだけひっくり返して、諦めて出ていったのではないか、と思うのですが、正直なにか取られていてもよくわからない、という状態です。今後も空き巣に侵入されるようなリスクがあるのであれば、もう少し管理の方法を考えねばならず、頭の痛いところです。
父親が長期入院していておそらくはもう帰宅することはないのだろう、と思うのですが、そうは言っても父の家ではあるので、生きているうちは現状維持かな、という話を弟ともしていたところです。私や弟の私物もいろいろと置きっぱなしになっており、家をどうにかする場合、そうした物の整理も必要になってきます。大学入学で家を出たタイミングでは、将来的に実家の整理を考えなくてはならない、なんていうことは全く想像もしていなかったし、医者になってからは忙しすぎて実家のことを考える余裕もありませんでした。今となっては、母親が亡くなり、大学医局を辞め、一時的に実家で生活した時期がいろいろ整理するチャンスだったようにも思いますが、当時は父親が家で生活できていたし、なんやかんやで私は間もなく海外生活を始めてしまったので、結局実家のことをあれこれする機会を失ったまま今に至ります。
まあ、こんな話は日本中にいくらでもあるんだろうなと思いつつ、田舎の空き家問題というのは当事者にとってはいろいろと頭の痛い問題だと思います。
時間感覚
何度も似たようなことを書いているような気もしますが、大学卒業以降、時間の感覚が完全にバグっているんですよね。母校に残った医者あるあるかも知れません。学生時代というのは、卒業生を送り出し、自身が進級し、後輩たちが入ってくるという、非常に分かりやすい時間の流れを感じられる場所だと思います。学校を卒業する、というタイミングで、同級生たちはそれぞれの道へ散り散りになり、自身も巣立っていく、というのが大多数の人生の流れである一方、母校の医局に残った場合、割と多くの同級生や先輩たちを引き続き院内のあちこちで見かけるし、後輩たちとも別れるわけでもなく、なんなら臨床実習で自分の職場に順番にまわってきたりする。単に時間の流れがわからなくなるということだけでなく、周囲の人間関係をそのまま引き摺ることから、毎年順当に時間が経過していく、という肌感覚を失い、なんだか時間が止まってしまったかのような錯覚、止まっていないにしても、そこからの時間経過が相当に短いもののような錯覚があるのです。他方、自身は順当に歳を重ね、気力や体力の低下をしみじみと感じたりする矛盾。
医局を辞めて海外生活を始めた、というのはそんな中での大きな変化ではありました。しかしながら、前回も書いたように、既に「海外で暮らすこと」自体が日常化してしまい、これ自体には特別な感情を抱かなくなって久しく、むしろたまの一時帰国の方が数段刺激的で、割と平坦な昨今の日常の中での特別なイベントになっているような気もします。
今の国にやって来てから、早2年以上経過しました。大体一つの任地に長くても3年くらい働くと、異動の声がかかる、というのが最近のルーチンですので、あと一年くらいでまたどこかへ異動するのではないかと思います。日本での臨床に戻るかどうするか、というのはずっとどうしようか考えていることではあるのですが、現在の仕事は割と長い休みなども取りやすく、日本で常勤の勤務医として働くことを考えると、今と同じような条件というわけにはいかなそうなこと、幸いなことに、現在の職場ではそれなりに評価していただき、継続して勤務することを望んでいただけていること、を踏まえると、自身の健康状態などに大きな問題が生じない限りは、もう少しこの生活を続けようかな、という方向に大きく気持ちが傾いているところです。
まあ先のことはわかりませんが、ぼちぼちやっていこうと思います。
トラベラーズチェックを持っていったりした
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続きです。昔は「紙の航空券」の原本がないと搭乗券が発券できなかったので、旅行会社から事前に送ってもらうなり、旅行当日に空港カウンターで受け取るといったことが必要でした。いつの頃からかeチケットに置き換わり、旅行の手配はオンラインで完結するようになりました。まあ便利にはなったのですが、「エイビーロード」とか「自由旅行」といった冊子をめくりながら旅先に思いを馳せ、近くの旅行代理店でツアーを申し込んだりしたのも懐かしく楽しい思い出ではあります。ただ、この紙の航空券をいつまで使っていたのかははっきり思い出せないんですよね。各航空会社のeチケット導入時期などを調べてみると、おそらく2003年のラスベガス旅行にはまだ紙のチケットを使っていたのではないかと思うのですが、2005年のバリ島旅行は、どっちだったか微妙な感じです。
医師免許をとって最初の年は、怒涛のような奴隷労働が始まってしまい、あまり仕事以外のことを考える余裕がないまま一応夏休みだけはもらうことができました。事前に旅行計画をたてる余裕もなく、ちょっと実家に帰省したりしましたが、容赦なく携帯電話が鳴りまくり、休んだ気がしませんでした。ある上司に「バカだなお前は。夏休みに休みたいなら、携帯の電波の届かない海外とかに行くんだよ」と言われたのを思い出します。この頃は日本の一般的な携帯電話はローミングされず、海外で着信できなかったのですが、まあ割とすぐに海外で着信できるようになってしまいましたね…。
2002年に、病棟で厄介な患者とのトラブルがあって上司にもいろいろ詰められ、非常にもやもやした中で夏休みに突入し、バルセロナに旅行しました。エールフランス利用で、乗り継ぎ便がかなり遅延したのを覚えています。スペインはユーロ導入以前、物価が非常に安かったのが、ユーロ導入後はインフレが進み、かつてのような旅行者にとっての天国ではなくなった、みたいなことを言われていたのですが、昨今の世界情勢を踏まえると、まだまだ十分に物価は安かったように思います。カジノにブラックジャックしに行ったりもしましたが、多分この時に通ったカジノが、現在、ポーカー、EPTの会場になっているカジノだと思います。旅行当時、そもそもポーカーテーブルがあったのかどうか不明です。ブラックジャックテーブルには、アジア系のやたら大金を持っている常連がたくさん座っていて、スペイン語でいろいろ絡まれたけど何言ってるのかわからなったという記憶があります。
2003年には、フライトとホテル、空港送迎のパッケージで、格安でタイ航空のビジネスクラスが利用できるものを見つけて、ラスベガスに旅行しました。郵便局で米ドルのトラベラーズチェックをつくって、カジノに持ち込んだのを覚えています。カジノのキャッシャーで手数料なく現金化できました。私が海外旅行でトラベラーズチェックを使ったのはこれが最後です。おそらくこの頃以降、トラベラーズチェックは急激に廃れていったのではないかと思います。買い物や食事、宿泊の決済にはクレジットカードを使うとしても、カジノに現金を持っていく手段としては、引き続き非常に安全で便利な手法ではあるのですが。ビジネスクラスに搭乗したのはこれが初めてだったように記憶しています。やや古い機体で、フルフラットにはならなかったのですが、十分に快適でした。米国西海岸で別のキャリアに乗り継ぎをしていると思うのですが、具体的にどの空港で、どのキャリアに乗り継いだのかよく覚えていません。ロサンゼルスやサンフランシスコあたりだったかと思うのですが。到着が遅れ、乗り継ぎでターミナル内を走ったような記憶も残っています。米国乗り継ぎの場合、乗継地で入国審査と荷物のピックアップをしなければならなかったはずですが、この辺も記憶が曖昧です。少なくともスーツケースを一つ預け入れていたと思うのですが…。
2004年は海外はやめて沖縄にしました。当時は、下手に国内旅行をするくらいなら、海外旅行をしてしまったほうが安く済むことが多かったように思います。時代はかわったものです。ちなみに、このときが初めての沖縄訪問でした。
2005年も格安のパッケージを探し、ガルーダ・インドネシア航空のビジネスクラス利用でバリ島へ行きました。このときにマイレージを加算するために、今はデルタに吸収されてしまったノースウエスト航空のマイレージカードを作りました。その他のマイレージもこの前後にはじめて登録したはずですが、正確なことを覚えていません。ANAカードの機能としてのEdyを使い始めたりもこの前後だったはずです。このあたりの時期、ちょっと自分の中でいろいろともやもやすることがあったのですが、まあ悪くない方向に解決し、自分の中ではそれなりにすっきりして次に進んだ、という時期でした。なお、この時期はまだデルタのマイレージが無期限ではなかったはずで、失効対策として、デルタのマイルを使って同じ年の10月頃に韓国旅行をしたはずです。オンラインでは手配できず、電話で手配したように思います。ソウルのカジノでブラックジャックをしたのですが、当時ストラテジーを無視するようなプレイをすることがままあり、同卓のおじさまから「ブラックジャックは確率のゲームなんだからさ」とお叱りを受けたのを覚えています。今ではその時のおじさまの気持ちがよくわかります。すみませんでした。
なお、医師になって以降、まともな休みなどまずなく、常に病棟に縛られていて、唯一一週間程度もらえる夏休みが、真にベッドフリーな休みだったのですが、大学院生時代はベッドフリーだったので、うまいこと予定を調整すれば、夏休み以外でも遠出できたので、なんとか失効前にマイレージを使うことができたのでした。なんらかの増減をさせれば期限が延長できたように記憶していますが、なかなか良い方法がなく、いろいろ思案していたのを思い出します。
とかなんとか記憶を頼りに綴りましたが、過去自分でこのあたりのことをはてなに書いてたみたいですね。なんでも書いておくものですね。
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とりあえず一旦区切ります。多分続きます。
深夜特急に憧れたりした
個人的に旅行において利用難易度がやや高いように感じているものとして、旅行先のローカルバスの利用というのがあります。前乗りなのか後乗りなのか、先払いなのか後払いなのか、一律料金なのか行き先別料金なのか、整理券方式なのか、両替できるのか、お釣りはでるのか、現金支払いのみなのか…今はネットで調べればある程度事前にわかるようになっているだろうか、それぞれの地域でルールが全く異なる上、実際乗り込むとルールを知っていて当然みたいな扱いを受ける(ような気がしている)し、なかなか難易度が高いですよね…。
ところで、国際線フライトに搭乗するお作法というのは、ローカルバスに比べればおおむね世界共通ではあるのですが、旅行する中でなんとなく覚えたものであって、事前に教わる機会はあんまりなかったような気もしています。Youtubeで海外旅行の動画など観ていると、時折、「そんなの当たり前じゃないか」というようなことが、さも特別なことのように強調されていることがあるのですが、でもたしかに、その当たり前って、事前に知る機会はあんまりないかも知れないな、とも思いました。昨今、初めての海外旅行も個人旅行が主流なような気もするので、出入国手続き、通関、旅券や査証、国際線航空機利用のお作法みたいなのは一般教養として学校などで学ぶ機会があってもいいような気もします。
田舎で情報の少ない中で思春期を過ごした私は、とにかく日本以外の国へ行くことに強い憧れを抱いていました。高校2年生の冬に、初めてフランスとイタリアに旅行する機会を得て、非常に興奮したのを覚えています。セキュリティボックスがどのくらいの大きさのものなのかを知らず、ホテルで大きめの荷物を入れてもらおうとして断られたり、あまり値段のことを深く考えず、かつ確認もしないままにフランスからクロネコヤマトの国際宅急便を使ってどうでもいいおみやげを日本に送ったりと、今なら絶対にしないようなちょっとした失敗をしたのを覚えています。海外旅行といえば、トラベラーズチェックを作って持っていくのが推奨されていたような時代でした。欧州共同体(EC)を経て欧州連合(EU)が発足したばかりの頃、まだユーロは導入されておらず、フランス・フランとイタリア・リラを使う旅でした。
大学入学後、弓道部の飲み会の帰りに、みんなでタイに旅行しようという話が盛り上がり、二組にわかれて安い飛行機を探し、現地で合流することになり、エア・インディア便を使って1998年5月にタイ・バンコクを旅行しました。割といきあたりばったりの部分があったり、まだまだ海外旅行に慣れていない故にホテルのチェックアウト後の動きでややトラブル(というほどでもないのだが)があったりもしましたが、学生だけで、初めての自由旅行をした、ということで高揚したのを覚えています。エア・インディア便はオーバーブッキングしまくりの悪名が高かったので、早めに空港入りしたものの、システムがダウンしており、数時間待たされた後、手書きのチケット発券、座席は自由席で入り口で人数カウントし、おそらく定員分で締め切ったのではないかと思うのだけれども、とにかく雑な仕切りの中でなんとか搭乗して帰国したのを覚えています。当時は出国税を現地通貨で空港でチケット購入などで納入する必要があるケースが多くて、それが面倒だったのもなんとなく覚えています。
当時始まったばかりのYahoo! オークションで小銭を稼いだので、友人と米国旅行を計画したのが2000年、このとき初めてマイレージカードというものを作りました。ニューヨークとラスベガスを旅行し、ニューヨークのブルーノートや、テロ前のツインタワーを訪れたりしたのを懐かしく思い出します。ラスベガスでは現在は閉業した日系ホテル、サンレモで当時行われていた無料日本語カジノレッスンに参加してブラックジャックについて教わり、早速カジノデビューしたのを覚えています。
大学卒業後、その後予定されていた外科研修医としての奴隷労働開始前に、2001年の4月にフランス・パリ、トルコ・イスタンブールを旅行しました。デノミ前、ハイパーインフレのトルコで、500万とか1000万トルコリラ札を使って買い物したこと、タクシム広場の食堂で、メニューの日本語訳を尋ねられ、一部間違った回答をしてしまったために、変な日本語メニューが作成されている可能性を心配したことなど思い出します。
2000年に米国旅行した際にはじめてつくったマイレージカードに、その旅行の際に加算されたマイレージだけでソウルに飛べることがわかったので、急遽その友達と韓国旅行をすることになり、仕事を始める前の旅行納めとなりました。特典航空券の発券など、ネットでは完結せず、電話が必要な時代でした。海外ホテルの手配などもネットのサービスなどはまだ普及しておらず、結局旅行会社に手配を依頼したことを覚えています。
過去の海外渡航歴を備忘録的に羅列してみようと思って書き始めてみたところ、そこそこ長くなるようなので、続きはまた別途書くことにしてみます。