私小説のようなもの(2)

 本ばかり読んでないで外へ出ろ。
 教育環境の整った都会で育った人々には想像できないかも知れませんが、地方の無教養な家庭の価値観なんてそんなものです。まあ、僕は確かに田舎の普通の子どもに比べると、外で遊ぶことをあまり好まない子どもでしたし、そういう意味では外で遊ぶことを促すというのは必ずしも間違った方向では無かったのかも知れません。
 ただ、毎週日曜日におおむね訪れていた父の実家においては、体力を心配してとか、そういうこと以前に、子どもが好きな本を読むということに価値を見出していなかったように思います。マンガでもゲームでも無くて、僕が貪るように読んでいたのは児童文学書の類でしたが、父の実家の価値観としては、子どもは外で遊ぶものであって、本なんて読んでいるのはどうしようもない、ということだったのです。
 また本なんか読んで、という信じられない言葉に怯えながら暮らした幼少期、だけど本を読むことをやめなかったことが今の僕を形成していると思うし、多感な時期になるべくたくさん本を読むということがとても大切なことだと確信しています。もっと本を読めと言われるならまだしも、本を読むことを否定的に捉えられる環境、そういう世界があるのです。そして、幼い僕にとってはそれが唯一の世界だったのです。
 長男だった父ですが、いろいろな理由があって実家のそばには父の弟一家が住み、僕達の一家はそこから車で一時間弱離れた、母の実家の近くに住んでいました。その距離と、本の大切さを知っている母という存在が、荒々しく強権的な父方の祖父の直接的な影響からは逃れることを許してくれていたのです。後に、父の義理の妹が、私の母にその直接的な影響から逃れられない距離での子育てについての愚痴を語っていたというようなこともきいています。
 父方の実家では、父の弟の長男が祖父の大のお気に入りであり、まさに彼なりの英才教育の直接的な影響下にあって、それは良くも悪くもずっと尾を引くのです。僕は幼いながらにその立場を決して羨ましいものであるとは見ておらず、選択肢の無い狭い世界の中においても、僕は僕なりの独立性を保とうとし続け、僕なりの価値観を思い巡らせていたのです。