「翻訳」-0425-

 僕らは物事を考える時に、言葉を使うけれど、僕らが考えていること全てが、そのまま言葉になっているとは思わない。語彙の少ない人は、それだけ思考力が劣るというわけではないと思うし、言語の無い社会でも、人々は思考したのだ。だから僕の考えを映すのに使うこの文章は、僕の思考の翻訳であって、そのままじゃない。

 そして思考と思考のコミュニケーションに言葉が用いられる。翻訳と翻訳がぶつかって、それはさらに翻訳し直されて僕らの脳の中でさらに思考される。余計な課程を経ることで、僕らのコミュニケーションにはノイズが混入するのだ。

 常に人間と向かいあい続けなければいけない臨床の場において、ノイズに次ぐノイズが耐え難き騒音となってのし掛かってくることもある。他の客商売なら店員も客もある程度は自己責任において相手を選択できるが、病院におけるその関係は非常に微妙だ。好きこのんでやって来るわけではない患者と、その患者に常にベストの気分で臨めるわけではない医師。周囲をとりまく医療スタッフ、患者の家族。

 あるいは自分の上司に抱いたまま解決できないでいる疑問。自分と周囲の医に向かう姿勢のずれ。そして僕は時にそれを言葉に込めて表現する。僕の翻訳はあまりうまくない。