「ダメな医者に」-0424-

 このままじゃダメな医者になっちまうんじゃないか、と思う瞬間があるのです。

 文字通り右も左も分からなかった春先に比べれば、新しく入院してきた患者にルーチンの検査プランをたててみたり、採血のデータをみて点滴を調節してみたり、それなりのことを無難にこなせるようにもなってくるし、完全な休日が無いにしても、土日はかなりの自由な時間を得る余裕も生まれてきました。きっとやろうと思えば研究論文にも手をつけられるのでしょうし、胃カメラだって大腸ファイバーだって習得できるのでしょう。

 いっぱいいっぱいの仕事をしていた入局当時の半分の時間で、同じ仕事をしたとして、僕は残りの半分をまるまる休息しようとしているのかも知れないと思うのです。もちろん、なんでもかんでも根性論で、結果もかえりみずにただただ一生懸命やるだけだということがよいとは思いませんが、その一見不合理な根性論が、重要な意味を持つ瞬間もあると思うのです。

 やっと自分のペースで仕事をすることができるくらいの「慣れ」によって、効率的な仕事をする反面で、決して僕のペースにあわせてくれるわけではない患者さんたちや、他の医療スタッフという存在が、そのペースを乱すことを、心の中でものすごく嫌がる僕に気づくことがあるのです。そんなときの僕はまるで僕が毛嫌いしていた医師像そのもので、その嫌がる素振りを表出したか否かによらず、自己嫌悪に陥るのです。

 僕は公式に乗っ取って処理するようなことは決して苦手ではないけれど、頭の中のことを体で表現するのは決して得意では無かったのです。ドッジボールの上手い子じゃなかったし、きれいな絵だって描けませんでした。でも決してドッジボールも絵画も嫌いでは無かったのです。

 教科書的な知識と思うようにいかない手技的な面。いつも同じ答えを導き出す公式ではない患者という一人の人間としての存在。同じような表現でも中身の違う病態。どれも追い求めようとはしているけれど、なかなか思うところには達せないのです。

 上手く入らなかった点滴に、手伝うつもりが邪魔をした手術助手を務めた後に、僕らは体にそれを覚えさせる修練の必要を感じ、合併症の検査方法が浮かばなかったときに、教科書的な知識の必要を感じ、「新人たちの記録するカルテがただのデータベースみたいだ」、と呟いた先輩医師の言葉に、初心を忘れていないかと、はっと思うのです。

 根底に自分なりの「正しさ」があって、何かの拍子に「ダメな医者になりたくない」と思えるうちは、ダメな医者へ向かって歩むことはないとも思うのです。僕らはまだ、医者としては本当にひよっこで、何者にもなっていないけれど、きっとダメな医者には今すぐにでもなれるのです。