「心臓マッサージ」-0449-

 実のところを言うと、自分の身内の死というものに出くわしたとき、人間なら当然湧き上がってくるであろう感情を、きちんと感じることができるのか不安だったのです。

 死んでいるという状態を、僕らは理解しているはずで、かつて死はとても分かりやすいものだったと思うのです。心臓が止まる、呼吸が止まる、瞳孔が開く、かつてこれは確実な死でした。しかし、人工呼吸器が登場したことにより、人工的な呼吸の維持が行えるようになり、呼吸を維持することで、心臓はその自動性を保てるのです。そうして分かりにくくなった死は、脳死という概念を生んだりもして、様々な思惑を巻き込みながら、医学的な概念になっていったのです。誰もに訪れることであって、誰もが理解していると思っていたことなのに、今ではそれを決められるのは医師だけになったのです。

 何でもなかった人が急に心配停止になったというような状態、それは例えば心筋梗塞であったり、エコノミークラス症候群という名前でも話題になった肺塞栓であったり、そんな時の蘇生処置は誰の目にも分かりやすい蘇生の行動なのですが、末期癌患者の心臓の鼓動がだんだん弱くなって、ついに停止したというときに、家族の希望だとか、駆けつける親族を待つまでの間だとか、いろんな理由から見かけだけ行われる蘇生処置は、儀式のような行動で、心臓マッサージをしながらも、僕の頭は全く別のことを考えてしまったりするのです。

 救急でやって来た患者さん、救えたかも知れなかったけど救えなかったそれは、後味の良いことでは無いし、長く担当し、診察し、会話した上で見送る患者さん、その死は予測でき、当然やってくるべきものであったにせよ、患者さんへの思い入れは当然あるわけで、しかし、次の瞬間に僕らは談笑もできるし、別の患者さんに微笑みかけてもいるのです。それは別に冷淡な対応とは言い切れないのかも知れませんが、日常生活で感じうる感情とは乖離しているとも思うのです。

 祖父は病院のベットでしきりに心電図モニターのシールをはがそうとしたり、点滴の管を引っ張ってみたり、おそらく朦朧とした意識世界にいて、僕がその症例を受け持っていたとしたら、「話ができるうちに、親しい方々とご面会させて下さい」なんていうところでした。「おじちゃん、来たよ」という呼びかけに、彼はきちんと僕らの世界に反応して、僕がそこにいることを認め、僕の弟の名をあげて、弟はいないのかと尋ねたのです。兄弟で顔を会わす機会もほとんど無くなってしまいました。一足先に、祖父が入院する直前、もうすこし意識がはっきりしているうちに、弟は祖父を見舞っていました。伯父さんは「これで親父に会わすべき人には一通り会わせた」と言いました。

 久しぶりの地元、家族、親類、衰弱した祖父、うろたえる祖母、僕が担当したそれぞれの患者さんのバックグラウンドにそうした世界があったことは容易に想像できるけれど、例えば5分おきにナースステーションに現れて、患者の動きを伝える付き添い者に祖母を重ねて思ったりすると、僕がいかに、普段そのバックグラウンドを無視した仕事をしているかということに気付かされるのです。

 こんな場面で駆けつけるのが一番最後になってしまうことについて思うところはあるし、今までに受け持った患者さんの死とか家族の涙を思い出すことは当然あるのだし、別に死ということではなくても、僕の未熟さ故に余計に痛い思いをさせてしまったようなことを思い出したりもするわけで、僕の生活時間の大部分を占める、外科医という仕事は、僕に相当なプレッシャーをかけ続けているのです。 またなるべく来るからね、と言い残し、また4時間ほど車を走らせる中で、本当にいろんなことを考えるのだけれど、とにかく、僕はまた明日から病院で働くのです。