「似顔絵」-0509-

 唐突ですが、わたさんに似顔絵描いてもらっちゃいました。まだ全然面識のない人なんですが。お互いのサイトなんかを読みながら、それなりにその人物像をつくってみたり、メールなどを通してほぼダイレクトにコンタクトがとれるのは素晴らしいと思います。

 ネットでの繋がりとか、情報の氾濫なんかを警告する人は多いけれど、例えば、様々なマイノリティーなど、容易に仲間をみつけられないような場合、自分の属する母集団が少ないような時に、自己を否定する空気しか感じられず、また、必要とする情報も得られないということが往々にしてあるのです。そういう意味での田舎の残酷さ、というのはあると思うのです。

 ある僕の大好きなサイトに「時計がふたつあったら時間が分からなくなる」というような風刺があって、それはそれで大好きな警句なんですが、その時計がひとつしかなかった場合、それが正しいのかどうかわからないまま、唯一の判断基準となってしまうと思うのです。ふたつの時計が別々の時刻を指し示していたら、正しい時刻を判断しかねますが、時計が10個あったら、正しい時刻がみえてくるかも知れません。そして、時刻、というような、ある程度絶対的判断が可能な世界においては、多数決の原理で正しい情報に近づけるかも知れませんが、世の中の多くの物事は、相対的なものであって、それも全て強者の理論で片付けられてしまうと、マイノリティーは否定されてしまうのです。

 インターネットという道具は、それが正しいのか正しくないのかはよくわからないけれど、一生かかっても全部はみられない情報を世界中に発信しています。また、生活を共有していないある個人の、通常はお茶でも飲みながら交わされる程度の話をきくことができるのです。

 僕はインターネットに百科事典的役割はそれほど期待していません。なんだかよくわからない情報が垂れ流されているということが重要で、僕らはそこから自分の価値観を築いたり、生活圏の中ではみつけられない大切な人を見出すかもしれません。普通の生活の中で、同じような文化や価値観、マジョリティーの思想の中だけで心の平安を得られる人には、ちょっと想像の働かないところかも知れませんが、インターネットや携帯電話で救われたマイノリティーは、かなりいるようです。

 ほぼ単一民族国家の日本では、世界各地の民族紛争や内戦、イスラエルの問題などに対して、「野蛮な戦争だ」というくらいの感想しか抱けないことが多いと思います。ただ、彼らだって戦争なんて嫌なはずです。彼らに戦争という手段さえ選ばせる、価値観とか文化とかいうものはなんなのでしょうか。世界政府思想というものについて、僕はよく知らないのですが、それが個性を潰すということであれば、まったく魅力のない話です。

 ええと、似顔絵の話とは関係無くなった上にまとまりませんが。明日から夏休みをもらいました。ちょっとラスベガスに民族学と世界経済を勉強しに行ってきます。えへへ。