「言い訳日記」-0569-

 入院させるっていうのは、ある意味ひとつの逃げなんですよ。外来でちょっと診て「帰っていいですよ」というのは、とても責任の重いことだし、なかなか勇気のいることなんです。かといって僕らも来た患者さん全員を、採血してレントゲンとるわけにはいきません。入院してもらえば、とりあえずの時間稼ぎにはなるし、その間検査を追加したり、他科に相談したりして、正しい診断にたどり着く確率があがりますが、外来の限られた時間で診断をするというのは非常に難しいです。

 中には泣いてる子供を連れてきて、「今日はどうされましたか?」なんて尋ねようものなら、「どうしたもこうしたも早く診ろよ、医者ならわかるだろ?」なんて激怒する親がいたりするのですが、僕らは占い師じゃないわけで、採血とかレントゲンだって、何かを狙ってとるわけで、検査をするとさらっと答えがでてくるわけじゃないんですよ。問診というのは重要な行為です。テレビの修理だって壊れた場所を言って出すわけですし。

 僕ら生き物ですから、機械的に、白血球数が10000以上ある右下腹部痛が虫垂炎の手術適応、とか、一日に5回以上吐くと重症とか、そういうことではないのです。人それぞれ。診断にある程度の方向性はあるし、治療にもある程度の方向性はあるけれど、なんにせよ絶対ってことはないのです。同じような急性腹症で、手術で劇的に良くなる人もいれば、手術に耐えられない体力の人もいるし、抗生剤だけでけろっとする人がいる一方で、1日待ったら、病状がらっと悪くなる人もいます。これは乱暴な言い方をすれば結果論です。

 アガリスクで癌が治った人もいるのかも知れませんが、それも結果論であって、僕らはもう少したくさんの人間に効く確率のある抗癌剤を使うのです。そうやって抗癌剤を使っている人の中には、実はその抗癌剤よりも別の何かが劇的に効くのかも知れません。

 まあとにかく、そういったいろんな可能性とかいうことを、片っ端から話さなくてはならない、という風潮がありますよね。何事もなくすめば、「あの医者は脅かすようなことをたくさん言って、患者の気持ちを考えてない」と言われ、「簡単な手術です」と説明したものの、予期せぬ所見や合併症があれば、それはそれで叩かれます。そして、その合併症の類は、専門家の目から見れば、やむを得ない場合も多くあるのですが、一般人にしてみれば、医療ミスとごっちゃにして叩けばよいという風潮です。

 でも、外来で薬一粒出すたびに、1万人に1人の頻度でおきる合併症について説明しなくてはならないんでしょうか。局所麻酔の手術でも、最悪の事態を説明しなくてはいけないのでしょうか。薬には副作用がつきものです。強い副作用が出るもの、組み合わせを注意しなくてはいけないもの、食べ物の制限があるものなどはおおむね説明するとしても、何から何までというのはおかしい気もするのです。

 患者さんの権利だとか、情報公開というものが極限を極めたような人の場合、それこそ、医者同士のカンファレンスで使うようなデータシートを用意して、非常に専門的なデータの推移を説明した上で、種々の治療法を説明するわけです。説明を受ける側が医者ならばまだしも、素人の手が及ぶ範囲というのは限られていると思うのです。

 かつて集中治療部(ICU)に勤務していたときに、両親が子どものデータの推移に過剰反応を示し続け、医者が最低限必要と思われるような行為にまで細かく口を出され、結果として、全てが後手後手にまわり、なかなか有効な治療ができなかったということがありました。もう、そういう人は自分が医者になるしかないと思います。医者は患者さんが「これをしろ、あれをくれ」というのを全部そのままハイハイいうわけではなくて、元来専門集団なんです。有効性が確立していないいくつかの方法の中から治療を選んでもらうとか、リスクとメリットを説明した上で、手術や侵襲の大きな検査に同意をしてもらうかどうか決定してもらうとか、そういう大きな方向性としての決定権は、もちろん患者さんが有するわけですが。そして、何かをひとつを決めるということは、その一点だけを変えるということではありません。「この薬は嫌だけど、この症状は治せ」というのは、不可能な場合もあるということです。

 検査にしても、頭を打った人で、ほとんど神経学的異常を認めない人でも、強くCT撮影を求められることがあります。その一方で、過剰な検査による被曝で発癌が増えたとバッシングされるのです。僕が救急外来で撮るCTの半分くらいは、あまり撮る意味がないのに撮っています。もちろん、「絶対」は無いので、症状の軽い人が、実は何らかの障害を起こしているということはあります。でも、それは仕方がない範囲なのではないでしょうか。それを見落としとか医療ミスとか言われると、もうどうしようもありません。そして、そういったプレッシャーは、結局過剰検査か、医療機関のたらい回しかどっちかを生むのです。君子危うきに近寄らず、という医者は確実に増えているし、大学によってはそういう教育をもしています。

 この風潮が進めば、僕は外来で薬を出すたびに、説明書を一冊ずつわたし、いざ手術となれば、100ページくらいの契約書に署名捺印してもらわなくてはならないかも知れません。なんでもかんでも明文化するというのは、結局みんなで首を絞めあっているような気もするのです。