「責任を」-0580-

 ひっそりと更新。

 これはやっぱり、病棟受け持たず、バイトのその場限りの当直ばっかりやっているせいで抱く感情なのだと思います。月に1回行くか行かないかのような病院に、不定期に当直に行くことの繰り返し。当然、そこの入院患者に特別な思い入れがあるわけはありません。そういう勤務では、とにかく自分が当直勤務をしている時間帯に何もトラブルなく過ぎ去るのを待つだけになる人が大多数だと思います。自分が主たる責任を持って、治療や検査の大筋を決めて受け持っている患者さんであれば、機械的に勤務時間内と時間外ということで割り切れないものもあるし、必要があれば、夜間休日に病院に出ていくのも厭わないのです。もちろん、それで事実上24時間拘束になってしまって追いつめられてもいけないので、ある程度はフレキシブルに。

 アメリカの病院などでは、割と機械的な交代勤務が行われています。それは国民性、文化など、日本とは背景が異なる部分によるものも大きいのですが、きっかけは追いつめられた医療経済だったようです。日本でも医療経済は追いつめられている一方、患者さんの要求は大きくなる一方なので、医者個人個人の善意だけで医療を回すのは難しい時期に来ています。その限られたマンパワーと医療経済の中で、なんとか高度な医療を保とうと思えば、病院のセンター化や、しっかりした交代勤務も必要になってくるかも知れません。僕自身、そういった交代勤務の制度に移行するのもよいかと思っています。ただ、前述のように、ある患者さんを総体で受け持つ、という感覚は、おそらく医者・患者双方に共通の意識だと思うのです。そういう意味で、常識的な範囲での時間外の診療や、病院からの呼び出しはかまわないとは思うのですが、その診療を強い「義務」として捕らえるのはよくないと思っているのです。こういう話をすると、大多数の先輩医師は嫌な顔をするし、「そうやって患者を診られないなら医者やめちまえ」なんて言われたことも実際あります。

 ただ、僕が義務を越えた善意の部分でなりたっていると思うそうした行為を、医者・患者の信頼関係ではなく、義務と権利でしばられたものととらえてしまうと、いろいろと問題が生じると思うのです。一昔前までは、確実にその関係は信頼と善意の関係だったと思います。現在、徐々に契約と義務と権利というようなやっかいな代物へ変貌しつつあり、「たとえ数日変化のない症状であっても、夜中に心配になったのだから、患者はその時点で受診する権利があるし、医者はその求めに応じる義務がある」という、お互い気分のよくない関係になってきています。

 たとえば、夜中に急に具合が悪くなって、救急車で駆けつけた患者が、息も絶え絶えに「夜中にすみません」ということもあります。その気持ちっていうのは重要だと思うのです。かえって、元気な人ほど、夜中に受診する正当性や権利を主張し、医者に居丈高になる傾向があります。特に夜間受診する人の多くは、なぜその時間に来るのか理解に苦しむ人です。こういう表現はまたいろいろ批判されることが多いでしょうが、僕らは当直時間の多くを、「常識のない人」の対応にとられるのです。そんなの医者の一方的な常識だ、と言う人が多いのですけれど。

 ただし、そういった緊急性のない人も含め、時間外対応がある程度気軽にできるという環境が、真の救急患者が受診しやすい環境をつくるという部分があるのは以前から言っている通りです。ただ、どうも最近は、単に責任の所在を医者にするためだけの受診というのがやたら多いように思います。これは、病院以外での人間関係も、不文律の信頼関係から、義務と権利の関係に変貌してきたところが多いでしょうか。たとえば、学校で転んだり捻挫したりした生徒に、軽々しく先生が、「大丈夫」なんて言おうものなら、大問題になることも多いらしいです。そんなわけで、ちょっとすりむいた人や、ちょっと突き指した人なんてのが片っ端から病院へやってきます。自分たちで消毒したり、湿布はったりして、良くならないようだったら受診も考える、という人の割合は多分だいぶへってきているのではないでしょうか。まあ、我々医者も、滅多なことでは「大丈夫」とは言えなくなってきており、あきらかにごくごく軽い突き指に対し、レントゲン検査を求められたとして、もし万が一、骨折があったりしたときのために、本心では必要ないと思っていても検査を施行してしまうのです。高齢者の転倒でやたら頭部CTを撮ったりするのも責任逃れと証拠写真撮りのようなことかも知れません。いくら神経学的所見を一生懸命とって、異常なしと言っても、納得されないことが多いです。日本では、その病院で施行できる範囲での全ての検査を求めてくるような人が多いし、少し様子をみて、症状の変化にあわせて検査を追加していくという説明を受け入れてくれない人も多いです。「念のためCTを撮ってください」と、患者が自ら求めてくるし、それを拒否するのには相当な勇気が入ります。

 さて、僕が実際に時間外の対応をしていないのかと言えばそうではなくて、もちろん、自分の関わったすべての患者さんは気になりますし、責任を感じているのです。夜間・休日だって必要があれば対応したいと思うし、対応しています。それによって、自分の予定を犠牲にすることもあります。それは「ある程度は」仕方のないことだと思います。この「ある程度」を否定する医者がたくさんいて、やたらと精神論を熱く語ってくるのですが、僕に言わせれば、そういう医者ほど診療が雑だったり、自分が思っているほど患者さんに好かれていなかったり、言っていることとやっていることが違ったりするのですけれど。

 まあ、実際に全てを医療のためだけに捧げられる人がいたらそれは素晴らしいとは思います。でも、それは人間の感覚じゃなくて、多分神の領域です。誤解を恐れず言えば、「聖職たる医者として、その全てを患者に捧げる」という感覚は、僕にはちょっと理解できません。そういう人が世界中に何人かはいるかも知れませんが、おおむね普通の人間が専門職として医者をやっていて、普通の人間が考えられる範囲で善意の人となり、常識的な範囲で尽くそうとする、という感覚がしっくりくるのです。

 僕は自分の全てを犠牲にするということが唯一正しいとは思えないのです。患者さんの急変に、已むを得ず対応できないことがあるかも知れません。それを当直医や代行医に対応してもらうのが、間違った手段だとは思いません。時には自分の予定が優先される時もあると思います。

 少なくとも僕は、自分や自分の家族の主治医となってくれる人にも、人間的な生活を望みます。病院にはりついて、患者のことしか考えない神様みたいな人、それはそれで正しいとは思うけれど、僕は適当に休んで、いろんな趣味を持っていて、いわゆる普通の人間であることを主治医に望みます。こういった感覚は少数派なんでしょうか。

 僕は到底聖人ではないので、もしかすると呼ばれるかも知れない休日に、大酒を呑んだりもします。だけど普通の人間並に善意があるので、酔っていたとしても、受け持ち患者が主治医の診療を求め、その必要があると思えば、何とか酔いを醒まして病院へ向かうのです。

 さて、当初綴ろうと思っていたことからは、だいぶ話がそれてきました。前述のアメリカの交代性の医療ですが、それはかなりしっかりとした申し送りによって引き継がれ、引き継がれた医師はその時間、主治医になります。日本の場合は、主治医がいないあいだのちょっとした穴埋め、という感覚ですので、当直医が治療方針を大きくいじるということはあまりありません。まあ、あきらかにまずい指示が出ていて、それによって自分の勤務時間内にトラブっている患者がいれば、多少しゃしゃり出た指示も已むを得ないとは思います。結局、当直医はその患者をその後も長く診ることはないわけで、そういった診療の介入を行うのは例外的です。何か起こりそうな患者には、その時の方針があらかじめ患者やその家族と相談して決められていることも多いのですが、カルテをちゃんと書かない医者も多いので、もともと自分の知らない患者さんがたくさん入院している病院の当直バイトで、情報がほとんどないまま入院患者への対応を迫られることがあります。まあ、苦痛やその他の変化に関しては、原因治療ができるものについてはそれを行い、それ以外は対象療法を行い、主治医へ引き継ぐまでなんとかします。重大な変化や、命にかかわるようなものであれば、蘇生を行いながら、主治医に連絡をとります。

 高齢者急変に関しては、ぶっちゃけ寿命みたいなところもあるので、何をどこまでやるかっていうのは、本人や家族の希望によるところが多いです。蘇生をしたからってどうにもならないものも多いです。主治医があらかじめそういうことをおおまかに話しておいてくれるとありがたいし、その旨をカルテに書いておいてくれるか、いつでも連絡がつくか、どちらかでもいいので意志の疎通が図はかれれば、夜中の高齢者の急変に、どんな指示を出せばいいのか迷わずにすみます。あまり話がされていないと、夜間主治医が不在の時に、お互い初顔会わせ同士で、死についての話をしなければなりません。これは交代勤務をするにしても、ちょっと工夫して、昼間の間になんとかしておけばよいのですが、高齢者の急変というのは予測しにくいこともあるし、80、90の高齢者には、全て死ぬときの話をしておくのかといえばそういう話でもないでしょう。

 あっちこっちに話が飛んでしまってすみません。今回本当に書きたかったのは、自分が責任を持ってずっと診る患者かそうでないかによって、できる医療もかわってくるし、モチベーションもかわってくるのだというお話。大学で病棟も持っていないのに、週に一回の専門外来を手伝わされたりするのは、正直モチベーションがわかないです。お互いにその場限りの点の関係。初めてお会いする、術後患者のフォローアップをしたり、僕が術前検査をした患者の実際の治療を病棟医がしたりというのは、お互いに気持ちがすっきりしないと思うのです。特に外科医の場合、手術という非常にメリハリのある、はっきりした治療が存在するので、そこを中心に考えていかないと、なかなかすっきりしにくいです。ある患者さんにメスを入れるというのは、その後ずっとその患者さんの主治医になる気持ちがないとできない行為だと思います。患者さんにとっても、外科医は、自分の体に相当な侵襲を与えた相手であり、その関係性は体にずっと刻み込まれているわけです。

 当然、術前から術後までずっと自分の受け持ち患者を持ち続ける、自分の外来だけに通う患者さんという存在には、並々ならぬ思い入れがあるし、それなりに信頼関係も築けます。お互いに顔の見える存在だから、医者がその関係を崩すほど偉くなりすぎななければ、本音で病状や治療を語り合えます。このあたりは、僕が仮に患者だったら、神様じゃなくて人間を主治医にしたいと思った理由でもあります。高圧的で偉そうな医者も、神様のような偉い医者も、その「偉い」意味はだいぶ違いますが、対等な関係は築きにくいのではないかと思うのです。

 3月まで在籍した病院は、たった1年間だったけれど、僕の外来と僕の患者さんがちゃんといたし、救急外来で自分が初診で診た患者さんは、そのまま受け持ちになるシステムだったので、そういう一貫性という意味でのわかりやすさ、気分のよさがありました。今、やたらとバイトにでかけたり、大学の外来や検査を手伝ったりしているわけですが、その点、点でこなしていくことは可能ですが、目の前の患者さんのストーリーを抱えて受け持つという達成感は味わいにくいです。たとえば、毎回違う医者が診ている生活習慣病の患者に、「お酒と塩分を控えてください」っていう常套句をつぶやくだけというのに相当抵抗を感じてしまうのです。多分そこに通う患者さんは、医者は誰でもよくて、体調に大きな変化がない限り、いつもの薬を、時間をかけずに処方してくれる人が必要だということなのでしょう。

 現在のローテートシステムの研修医が、多分似たような状態ではないかということです。本来長い経過をたどる患者さんの、ごくわずかの時期にしかふれないまま次の科へ移ってしまいます。もちろん、胃カメラをたくさんさせてもらえばそれはうまくなると思うし、エコーだって数をこなせばうまくなります。それにはそれなりの達成感があるとは思います。ただ、それはあくまで技術を身につけたというだけの話。それが医療の本質であるかも知れないのに、一人の人の発病、治療、経過までずっと見続けるということの達成感はほとんど体験できないと思います。まあ、僕自身も1年か、早ければもっと短い期間で次々と病院を移っているので、真の意味で長期経過を診た人はいないのですが。

 僕がバイト先で、勤務時間が終わるまで平和でいればいいな、と思うように、ローテートの研修医たちが、自分がお客様的に一時的にある診療科にいて、あまり責任は持たないまま、一応担当患者を与えられ、指導医に言われるまま点滴のオーダーを書いてみたり、検査を手伝ったりして過ごしていくだけになってはいないか、と思うのです。僕の研修医時代は、旧制度の最後のほうでしたが、一人当直や単独診療の機会が少なからずあったのです。それはもちろん危険な面もあり、なんらかのバックアップと監視の体制が必要なことは確かです。ただ、そういったある程度追い込まれた状況で、自分の責任の中で自分なりの治療を考え、患者さんに対応するという経験は、医者にとって不可欠な経験です。そのために最低限必要なのは、自分が何ができて何ができないかをはっきり知ることです。

 ある病院で、比較的副作用の少ない限られた薬剤の処方と、侵襲の少ない限られた検査のみ、研修医の独断で行うことが許可され、それ以外のものに関しては、深夜であろうとなんであろうと、指導医へのコンサルトを必要とする、という環境をつくった上で研修医が救急外来に対応していたそうですが、これはなかなか優れたシステムだと思います。これによって、研修医は「責任を持つ」経験をできることに加え、ファーストチョイスとして行うべき比較的安全な検査や治療が学べ、必要なときに速やかに指導医へ連絡がとれる状況下にあります。指導医によっては、やたら怖いだけで、結果として研修医がすくみ上がって何もできず、また、困ったとしても容易に相談できないという人間がいますが、これは非常にうまくないです。もちろん、叱るべきところは叱らないといけないでしょうが、うまくいったところはきちんと褒めるという指導体制は必要です。

 すでに現行の医師研修制度は、見直しが検討されているということですが、見直すべきもっとも重要なところは、研修医にいかにして「責任」を与えるかということだと思います。もちろん、この研修システムの中でも、その「点」の診療の全てに責任感と使命感を持ってあたり、結果として、点を線にすることに成功した人もいるとは思います。バイト当直にしろ、モチベーションがないと言っているのは、それは、僕が小さな人間だからであって、きちんと取り組める人も多いのかも知れません。

 ちょっと宙ぶらりんな状態にいて、あれこれ考えてしまうのを、そのまんま書いたのでわかりにくいかも知れませんが、最近思っていることを綴ってみました。