実際に僕らが外来でどんなやりとりをしているのか

傷の縫合を終えて。
「比較的きれいな傷なので、特にお薬は必要ないと思いますけれど」
「化膿しないでしょうか?」
「もちろん、化膿することもありえます。予防的に抗生物質をのんで頂くこともあります」
「じゃあ、出してくださいよ」
「はい。いままでアレルギーや喘息などと言われたことはありますか?」
「特にないです」
抗生物質にも一定の確率でアレルギー反応を示すことがありますので、注意してのんで頂き、副作用があらわれるようであれば中止して病院に相談して下さい」
「え? 副作用があるんですか? 具体的には?」
「軽いものですと、気分が悪くなったり、お腹の調子を壊したりということくらいですが、まれに血圧が急激に下がるなど、ショックを呈することもあります」
「それは困ります。副作用のない薬をください」
「副作用のない薬というのは存在しないんですよね。もし、副作用が心配でしたら、薬は無しでかまいませんよ」
「化膿するかもしれないですよね?」
「そうですね。人の体が相手ですから、傷がどうなるとも確実なことは言えません。ただ、最初に申し上げた通り、比較的綺麗な傷でしたし、よく洗浄し、消毒しましたから、感染の可能性は低いと思います。どうされますか?」
「医者なんだから、決めてくださいよ」
「じゃあ、薬はやめにしましょうか」
「膿まないんですね。膿んだら責任とってくださいよ」
「そればかりは、機械を直しているわけではないので、確実な保証はできません」
「なんだと、いい加減なことしやがって」
大袈裟かと思われるかも知れませんが、こういうやりとりは過去何度となく経験しています。本当だったら、
「傷はきれいに縫えました。まあ、膿まないで治るでしょう。薬はいりません」
の一言ですませたいところなのです。ただ、この断言が揚げ足をとられる時代なのです。お偉いお医者さんや、自称患者思いのお医者さんたちは、
「こうやって、いたずらに合併症を並べて、患者さんを怖がらせるのはいかがなものかと思う。もっと信頼関係が大切なのだ」
とかお説教するわけです。僕も、この意見はもっともだと思うのですが、無数にやって来る患者さんすべてに、短時間でそういう関係が構築できるかといえば自信がありません。裁判では「医者が説明しなかった」といわれてしまうだけなのです。可能性がとても低いことまですべて説明するわけにはいかないし、背景には、お互い、ある程度の「当たり前のこと」を暗黙の了解があると信じ、「大丈夫です」というような話をしていたのに、それが崩壊しているのを強く感じているのです。医者の努力不足の面もあることは否定しませんが、患者さんのあゆみよりも必要です。話が通じない患者を前にすると、本気で処方するたびに、分厚い説明書渡してサインさせようかと思うこともあります。
実際に、小さな傷の化膿くらいで訴訟に持ち込まれることは無いと思いますが、手術とか侵襲の大きな検査というのは、結局この延長なのです。
手術における死というのは、少なくともお腹や胸をあける手術に関していえば、じゅうぶん考えられる合併症のひとつです。頻度は様々ですが。無論、もう少し上手な外科医だったら救えた、というような症例もあるでしょうけれど、トップレベルに基準を設定するのは不可能なのは、少し考えれば分かることです。それにしても、おおむね日本では、貧富に関係なく、かなり高度な医療を受けられていると思います。逆にいえば、そうして、かなり高度な医療を受け、おおむね安全に治療されることが「あたりまえ」になってしまったので、そこからはずれて、確率的には低い範囲、不幸にも悪くなってしまう、亡くなってしまうという範囲に入ってしまったとき、それを「ミス」と呼ぼうとするのだと思います。まあ、人間のやることですから、もちろん、ミスもありますけれど。うまい外科医というのはミスをおかさないということよりもむしろ、ミスがおきたときにうまくリカバリーできる人というイメージがあります。
何かを請け負い、それにきちんとした結果が出なければ当然責任をとらされる、これはどんな業種でも一緒であり、患者が現に亡くなっているのに、正当な医療をしたと主張するのはおかしい、結果がすべてだ、と医療をバッシングする人を見受けます。例えばビルを建てるというような場合、きちんと完成したビル以外は認められないのであり、手術して救命できないものにはどんな言い訳もできないというものです。これは、おかしな話です。病気の治療というものは、もともとどんなに完璧な医療をしたとしても、救えないものが含まれているのです。完全に正しく行えば、正しく完成するものではないのです。