「うつさないでください」を放送する

 例えば秋田の小学一年生殺人事件。当初の情報としては、娘を失った「被害者」としての立場であった母親へマスコミが連日押し掛けました。その母親は、「そっとしておいて」というコメントをマスコミに送り、そのメッセージは、そっとされずに報道されました。
 そして現在、その母親が殺人容疑者となったことで、マスコミ各社は、今までの行為が全て正当化されるとでも言わんばかりに、押し掛けるマスコミに対し「うつさないでください。迷惑なんです。帰ってください」と訴える母親を、それに答えることもせずにうつし続けた映像を嬉々として流し続けています。まるで、「報道の義務がある」とでも言わんばかりに。
 その報道の仕方には悪意があふれ、失礼なマスコミに対し正当な主張をしている映像すら、「正義の報道機関に声を荒げ、襲いかかろうとしている」というような印象を植え付けるようなものになっています。世論も、「でもまあ、殺人犯なんだし、報道されても当然でしょう?」ということになっていくし、その報道の仕方に疑問を呈すると「お前は殺人犯を擁護するのか?」とか言われてしまうのかも知れません。
 犯罪が確定した段階なら、確かに、ある程度こうして報道されてしまうのは仕方のないことかも知れません。しかし、多くの場合、マスコミは「容疑」や、場合によっては、その「容疑」すら公式には明らかになる以前から、勝手に悪人認定した相手に対しては、非道な報道を続けていくことが非常に多いと思います。今回の件でも、殺人があったかどうか、罪があるのかどうかを決定するのは、裁判が決めていくことであって、それを待たずして勝手に罪をほぼ確信し、勝手に容疑者の人格を想像し、印象操作のような報道を続けるというのは関心できないと思います。
 尤も、今回の場合、本人も罪を認めているとされますから、ある程度その容疑者についての報道があっても仕方はないでしょう。その事実や公式に発表されている事件背景の報道は、「ジャーナリズムの正義であり義務であり権利」という範囲におさまるかも知れません。しかし、憶測や不確定な情報だけで、容疑者の人格を断定していくという手法はどうなのでしょうか。彼らに言わせれば、「ひとつの見解を述べているだけで、別に決めつけてはいない」のかも知れませんが、テレビや新聞の力は偉大だし、そこで報道されれば、世間はそれを「真実」だと考えます。
 福島の県立大野病院の医師逮捕事件以来、それまでにも抱いていた、マスコミに対する漠然とした不安は確実なものになり、不信感を隠せません。現在、ネットという手段で、テレビや新聞以外のソースに当たることや、意見を表明することができるようになったという点では、以前よりは多少はマシですが、それでもなお、テレビや新聞は圧倒的に強大です。資本主義・民主主義社会において、世論に食い込めるマスコミが一番強いのです。
 特に、これから裁判が行われるような事件に関して、憶測の部分の報道は最低限に留めるべきではないのでしょうか。個人的には、事件の事実の報道だけでじゅうぶんです。どうしても容疑者の人格とか、複雑な家庭環境とか、もうほとんどゴシップに近いものを流すのであれば、最低限刑が確定してからにすべきです。司法の立場にある人間は、しばしば「逮捕の時点で大騒ぎすることではない。裁判で無罪を勝ち取ればよい話だ」ということを言います。しかし、裁判となれば、それだけで多くの時間や大切なものを失いますし、仮に最終的に無罪であったとしても、無遠慮な報道で、勝手に「社会的制裁」を加えられています。そして、ほとんどの場合、失ったものは戻りません。身内も巻き込んで、社会的に抹殺されます。そして、マスコミや裁判は「事実誤認」や「冤罪」であった場合の名誉回復にはほとんど役に立っていないのです。
 こんな状態で、裁判員制度導入と言われても、それこそマスコミが自由に量刑を決められるのではないかと思います。同じ背景も「こんなに情状酌量の余地があった」とも「個人的事情はあれど、言語道断の犯罪であり、極刑をのぞむ」とも、自由自在に世論を操れるのですから。
 マスコミを、あまり品の良い表現ではありませんが「マスゴミ」と言った表現をする人たちにしてみれば、「何を今さら」という話だったかも知れませんが。