医者の名義貸し

 僕は今、大学院生という名前の無給労働者であり、かつて、卒後すぐに入局してきた研修医たちがこなしていたような雑務は、そのまんま新制度以前の医者たちの仕事になって、今に至っています。

 下手すりゃ別に名義借りてもいいんじゃないかというくらい頻回にバイトに訪れているような病院もありますし、週末や年末年始、連休など、ほとんど常勤医が当直せずに、丸投げのように医局に放ってくる病院も存在します。

 かつて「医局制度の悪」とか「名義貸し」とか言って大騒ぎしたのに加え、新研修制度により、大学外に研修医が流れ、誰かの目論見通りなのかなんなのか、まんまと地域医療や救急医療は行き詰まりました。なんだかいろんなところで「医学教育」の話をしているアメリカ帰りのお偉いお医者さんは、「医局の力が弱くなり、特に地方の大学から人が減ることは予想されることだった。それでも、マッチング制度により、医者が混じることが必要である」なんて上から物言ってるようですね。

 各病院で努力して魅力を出せとかいうのは、自分たちは絶対困ることのない大病院や都会の意見であって、予算も人もないけれど、そこに存在しなくてはいけないという地方や僻地の病院が静かに見捨てられていくというだけの話です。まあ、医療だけ見捨てられているわけではなく、地方っていうのは、場所によってはもう本当に悲惨なほど、何から何まで見捨てられているわけですけれど。

 以下、三年前に書いたものです。「研修医」と書かれている部分が、ローテーターしかやってこなくなり、やや習熟を必要とする「雑務」がまわせなくなったため、医員クラスから場合によっては助手クラスの人間、あるいは無給の大学院生に置き換わっている部分もあるということ以外は、これといって状況は変わっていない(か、むしろ悪化している)ように思います。

 さて、医者の名義貸し、ということが問題になっているようです。働いていないのに、働いたことになっているのは確かに問題です。ただしかし、それを問題にするのであれば、本当は働いているのに、しかも強制的に働かされているのに、働いていないことになっていることも同時に問題にしてほしいと思うのです。

 例えば、僕の場合、二年目に勤めた病院を辞して、医者三年目の生活は、国立大学病院勤務なのですが、契約の内容は、日雇いです。任期は一日とし、特別な事情がない限り日々更新だということです。給料の計算は、一日八時間労働の日給九千円強。週三十二時間のみ計算され、時間外の手当てなんてもちろんつきません。実際、研修医や若い医師たちは、下手すれば週の最初の二日間で、すでに三十二時間以上働いていたりするわけです。週四日間しか計算されていない理由は、多くの医師が、週一日程度外勤があり、実際は大学で労働しないためだとのことです。しかし、受け持ち患者がいる限り、外勤日だろうが、早朝にやってきて診察や検査を行い、外勤から戻ってさらに診療を行うなど、大学で少なくとも八時間は働いている医師も多いわけです。

 さらには、土日も多くは休めずに出勤するのですが、その給料に関しては、全く考慮されていません。挙句の果てに、病院が休日体制になり、患者さんをレントゲンに連れて行ったりする人もいなくなり、「土日は看護師がつけませんので、先生お願いします」なんて言われて、休日勤務の人間にいいように使われるのは、本来休日であるはずの研修医たちなのです。修行の日々だから、とか、先輩医師が歩んできた道だから、とか言って、なんだかわからない精神論で、必要なのに、それを担当する人がいない雑務を全て、研修医に押し付けるような世界なのです。

 再三書いてきていることですが、余程の人格者でもない限り、自分に余裕がなければ、人に優しくなんてできないと思います。研修医にも、当然休む権利はあると思うのです。急患や急変があれば、土日だろうが夜間だろうがもちろん対応するし、それで睡眠時間が削られても、それに文句を言うつもりはありませんが、実際は、そういう本来の医療以外のことに、多くの時間を割かれて、いろんなしがらみに煩わされるのです。

 夜間・休日担当している医師は、別に金儲けのために働いているわけではなくて、多くは義務として、自分の勤務している病院で当番が当たったり、常勤医の少ない病院へ外勤で出かけたりするわけです。日曜日に24時間勤務しても、別にどこかに代休がもらえるわけではなくて、月曜日に大きな手術をこなさなくてはならないこともあるのです。当然、医師の意識としては、そういう勤務は極力体を休めたいのです。当直、というのは、緊急時に備えて医師が待機しているということのはずなのに、実際は夜勤のようになってしまうことも往々としてあるのです。

 繰り返すようですが、僕らはみんなそれぞれ、医師としての責任の中に生きているので、いくら本心は休みたい状態であったとしても、僕らが診る必要のある急患を断ったり、急変を無視したりするつもりはありません。それで休息が妨害されたと憤る人は医師失格です。しかし、実際に本来の意味での救急患者というのは、割合としてはそんなに多くなくて、別にこの時間に受診する必要は全くないような、ただ、病院がやってるからいこうかな、という夜間外来と救急外来を履き違えたような、「コンビニ受診」が多いのです。

 診てほしいときにすぐ診てもらえるという安心感は必要だし、軽症患者が救急外来にやってくるのもやむを得ない部分ももちろんあります。そういう土壌が、真の救急患者が、ためらうことなく救急外来を受診することのできる空気をつくるとも思います。ただ、コンビニ受診する患者の中に、やたらと患者の権利を振りかざして、おおいばりするような人が少なからずいるのです。昨今の、偏った医療バッシング報道の影響もあるかと思います。患者さんは、確かに弱い立場かも知れないし、医者を選べないかも知れませんが、医者もまた、患者さんを選ぶことはできないのです。あくまで人間対人間の関係です。本当に重症の方でも、人間的な常識を持っている方は、「こんな夜中にすみません」と声をかけてくれたりするのです。その一方で、なぜかいつも真夜中に「定期処方」をとりにくる患者さんが、「いつまで待たせるんだ」とおおいばりしているのです。

 さて、「名義貸し」の話題に戻りますが、僕の三年目の流浪の生活は、四月から半年間の大学ICU勤務、十月からの外科病棟勤務を経て、一月から三ヶ月間、大学の隣の市の公立病院で、麻酔科の研修をする予定です。そこでも少なくとも週四日は勤務すると思います。しかし、そこは僕に職員の身分をくれないようなので、立場上は無職になります。無給です。社会保険証もなくなるので、国民健康保険に加入しなくてはならないし、国民年金にも加入しなくてはなりません。あえて公言すると、かつては、こういう身分の医師は、別の民間病院にバイトなどで勤務しながら、その病院の職員という身分保障と賃金を得ていたようです。実際の勤務の大半は、無給無職で通う病院においておこなわれるので、こういったことは、おそらく違法行為で、「名義貸し」としてバッシングされていることの一部だと思います。僕も当然、その違法の「名義貸し」はできないので、泣く泣く無給・無職の立場で働くのですが、それは違法ではないのだろうか、と思うのです。

 国立大学病院の、僕らのような日雇いの非常勤の人間は、何年かにわたって大学に勤務する場合でも、三月三十日に強制退職させられるという悪しき制度があります。三月三十一日は無職で、四月一日に新たに採用。これは、どうあがいても勤続一年以上にならないようにするためのもので、これにより、僕らはボーナスを貰えません。また、その一日間の「無職」のために、先に述べたように、国民年金に加入し、直後に脱退するわけです。実際、三十一日に下っ端がみんないなくなったら困るので、みんな勤務しているのですが、その違法性とか、空白の一日の健康保険がどういう扱いなのかとか、よくわからないことは多いのですが、みんな勤務の忙しさから、だんだんそういうことはどうでもよくなってきます。

 もともと、金のためだけに働いているわけではないし、労働とその報酬の関係を考えると悲しくなってくるので、そういうことで何か主張したいわけではないのですが、「名義貸し」にしてもなんにしても、その一面だけをみて報道している限り、僕らの真実は何もみえてこないと思います。また、資本主義の世の中において、それなりの労働に対する評価は、お金で行われている部分がある限り、優秀な人間を必要とする場所には、それなりの報酬を用意しなければならないと思います。働く人々の崇高な理念とか、自己犠牲だけに頼っていてはいけないと思うのです。どこかの国では、警察官の給料水準を上げたとたんに、警察内の不祥事が減り、警察全体のレベルもあがったといいます。日本という国は、資本主義で動いていながら、人というものを、お金で評価することをあまり好まないような気がします。僕がこういうことを書くと、またすぐに「金の亡者だ」とか「いやらしい」とかいうことを言われるのでしょう。

 一方的に、与えられる側だけが権利を主張しても、与える側の環境が旧来のままであれば、どうにもなりません。僕は至極当たり前のことだと思うのですが、よりよい医療のためには、医療従事者の、あまりにも過酷な労働環境の改善が必要だと思うのです。

 ただがむしゃらに突っ走ってきましたが、今後一生この仕事に身をおくことを考えると、本当にいろんなことを考えます。いろんなしがらみなんて考えずに、ただただ外科医として、医療の本筋に邁進できれば良いのですが、なかなか難しいところです。

 追記。

 なんで今頃こんなの再録したかというと、結局、現状では医局制度以外に、僻地にうまいこと医者を回す方法がうまれていないということをつくづく考えるからです。別に医局制度万歳ってことを言いたいわけではありません。医者が自由に交流できる土壌という意味で、マッチング制度や新研修制度は決して完全否定されるものではありません。しかし、皮肉なことに、医局という不自由さこそが僻地医療を崩壊させずにすんでいたわけで、おそらく今後僻地医療を考えるにあたり、やはり医者はなんらかの不自由さを背負わなくてはならないと思うのです。

 おそらく、政府や役人は、自分たちのあまり介入できないところでそういった「不自由さ」が存在しているのが気に入らないので、国主導の「縛り」を設けたいという思惑があるのだと思います。実際に、そういった思惑が時折報道されますし。

 国にわけのわかんない義務を押しつけられる前に、我々は僻地にもうまいこと医者がまわるようなシステムを、医者主導でつくってしまわないといけないのではないかという、そんな気もしているのです。具体的にどうかというとよくわからないのですが。

 以前、「テーマ日記」で、医局について書いたことがあったので、参考としてURL書いておきます。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20041109#p5