貧困の連鎖

 貧困層を抱えることによる最大のデメリットは、治安の悪化です。そして、貧困層が固定化され、世襲のものになってしまったとき、治安の悪化というのもまた確定されてしまうのです。インドでは、カースト制という負の遺産が、治安の悪化を呼び、国の発展の支障になっているといいます。貧困層を優遇するための政策が打ち出されていますが、単純にカーストの下層の人間の雇用割合を増やすというような逆差別が、さらにカースト間の対立を生み、身動きがとれなくなっているようです。
 以前、教育の機会均等ということについて述べたことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20070607#p1

 ワーキングプアネットカフェ難民といった貧困層に対し、主に新聞の投書欄などで、「社会制度が悪いというが、そもそもは当人たちの努力が足りなかった結果だ」と切り捨てている世代があります。偏見に基づいて表現すれば、それは、「今よりは貧しい社会だったけれど、とりあえずは仕事があり、苦労を厭わずまじめに働いてさえいれば、贅沢ではなくとも生きてはいけた」という時代のお話しだと思います。

 正直、僕も少し前まで、少なからず「貧困層に甘んじているのは、総じて当人たちの責任」といった印象があったことは確かです。実際に、努力が足りなかったという人もいるかもしれません。しかし「効率化」のはざまで、高い人件費のために正職員が削られ、使い捨てのように派遣社員をまわすというこの社会で、果たして貧しいままであるのは、当人たちのせいだけなのでしょうか。

 そして、確実に貧困の連鎖が起きているのです。社会制度のはざまで、弱者という名の強者が、うまいこと様々な補助を受けてそれなりの生活を受けている一方で、マジメに働く意志や教育を受けようという希望がありながら「健康で文化的な最低限度」に満たない生活を強いられるケースが多々あると思います。

 例えば、教育を受けるという機会が、両親の経済力にほぼ依存してしまうことになれば、サイクルがそこで閉じてしまいます。高等教育を受けられ、資本主義社会の資本を担うことのできる人間が、その子をまた学校に入れるという階級の形成。貧困のサイクルから、例えば教育という方法でステップアップする可能性がなくなれば、その階級は確立し、完全な階級としての隔絶が生まれ、貧困のサイクルから抜け出せなくなれば、世襲の階級となり、子が生まれた時点で、本人の能力を無視して階級が決定されてしまいます。これは非常に恐ろしいことだと思うのです。

 貧困による教育の不平等や、非正規職員を使い捨てにするような今の日本の現状は、まさにカースト制のように貧困を世襲のものにしてしまうでしょう。国は「日本の景気は上向いている」というけれども、富の偏在は貧困層の固定化をすすめ、治安を恐ろしく悪化させます。秋葉原の凶行は決して許されるものではないけれども、その凶行の動機に共感を寄せる人間が少なくないということの恐ろしさを考えなくてはなりません。
 劣悪な環境に身をおく人々は、本来十分な報酬や労働環境を与えて、国民全体で守っていかなくてはならないような存在を、単なる富の搾取者にしか思えないでしょう。例えば、我々医師は、いくら国際基準で劣悪な条件だと叫んだところで、恐らく日本でそれ以上に劣悪な環境に身をおいている多くの方々にとっては、安定した収入を得る特権階級なんだろうと思います。
 相当に劣悪な環境に身をおいている方々が、正当な賃金を得て、「一億総中流」的意識を感じられるようなかつての経済レベルに戻さない限り、それが国際基準からみてどうであろうが、実際の勤務がどれだけ激務だろうが、バッシングの対象からはずれるのはなかなか難しいのだと思います。かといって、お互いに奴隷自慢する必要は無いし、今我々のおかれている環境が良いとも思わないのだけれど、闇雲に待遇改善を叫ぶ医師たちの姿が、すでに特権階級にある人間が、さらなる特権を求めているようにしか思われないのだろうと思うのです。
 昨今の過剰な医師バッシングや、医療訴訟の嵐が正しいことだとは思わないけれども、そうした世論の背景に目を向けない限り、決して対話は成立しないし、医師としての「正しさ」を主張したところでどうにもなりません。蟹工船がベストセラーになるという社会を見つめない限り、医師が世間知らずだと言われてしまっても仕方がないのです。ただ、世の中の人に理解して頂きたいのは、医師が搾取する側の人間ではないということであり、攻撃する対象ではないということなのです。