無題

 ほとんど寝られずに、四六時中病院から呼び出されては、病棟やら救急外来やらの患者さんを診ていたあの頃、少なくとも一生懸命診療に従事したことに対して、感謝されこそすれ、恨まれたり怒られたりすることや、よもや訴えられたり、逮捕されたりすることなんて夢にも思わなかったんだ。だからこそ耐えられた。
 僕ら医者も人間だからさ、毎日のように真夜中に呼び出されたとしても、そうして眠い目をこすりながらも病院に駆けつけたことに対して、感謝の気持ちをあらわされれば悪い気はしない。体力が尽きたとしても、ちょっと自尊心をくすぐってもらったことで、気力を振り絞りながらもそれなりに気持ちよく働けた。でも「医師として当然の務め」というのは、あくまで医師が医師として自発的に抱く気持ちであって、他人から押しつけられるものではないと思うんだ。
 いつの頃からか、感謝どころか、救急外来にやって来る患者に無茶な要求をされ、あるいはいわれのない罵倒をされたりするようにもなった。昨今は、医師が駆けつけるのが当然であるというレベルを通り越して、「全ての病気は治るのが当たり前」になっているから、悪い結果は全て医者のせいになる。そんな世論の中で、とうとう、善意の医師が、殺人者呼ばわりされて逮捕されるという事件も起きた。
 眠りの尻尾を掴んだ途端にけたたましく鳴り響く電話の音とか、近所に響く救急車の音に怯えているうちに幻聴まで聴き、それでも患者さんのためと信じて、時には自分よりよっぽど元気な患者さんの診療をしていた。医師としての使命だと信じて頑張ってきたそういうことが、徹底的に否定されたような気分になったんだ。わかるだろうか。飴はもらえないかもしれないけれど、少なくとも微笑みで迎えてくれるはずで、よもやムチが振るわれることなど絶対に無いと信じて行っていた仕事に、ムチどころか突然銃が突きつけられたような気分だと言えば、僕の気持ちを想像してもらえるだろうか。
 例えば、共産主義がうまくいかないということは、歴史が教えてくれている。労働に正当な評価が与えられなければ、社会はうまくまわらない。脅迫や圧制を行ったところで、せいぜい無気力に最低限のことが行われるくらいで、発展性なんて望むべくもない。医療などという高度な分野においてはなおさらのことだ。
 とうとう、国の代表たる首相にまで「社会的常識がかなり欠落している人(医者)が多い」なんて言われてしまったみたいだ。文脈はどうあれ、心折れる一言に違いない。とかく昨今の医療崩壊の問題を、単に医師のモラルとして片づけようとする風潮があるけれども、本当は患者としての最低限のモラルだって求められて然るべきなのだ。
 神ならぬただ一人の人間である医師は、無限の慈悲を与えることは叶わず、全ての人間にいつでもどこでも最高の医療を提供するための予算も人的資源もない。救急まで含めた高度医療を、完璧に運営するということを、単にシステムの構築ということだけで行うことは到底不可能であるということは、医師は昔からわかっていた。だからこそ、自らの善意とモラルに基づいて、給与や待遇としては評価されない、24時間オンコールのような生活にも、感謝や敬意といったささやかな対価によって耐えてきたのだ。
 もちろん、医療というインフラはきちんと整備されるべきものだ。全ての人が健康を維持し、生命を守ることができるのが理想の社会だとは思う。しかし、そうした保護が自分に無条件に与えられることを当然だと考えてしまうことには、ずっと違和感を感じている。
 医療ということに限らず、社会的強者のみが生き残るのではなく、社会的弱者がきちんと救済されるのが成熟した社会だとは思うけれど、救済される側がそれを当然だと思うのは間違っていると思っている。あくまで、それは感謝して受け取るべきものだと思うんだ。もちろん、卑屈になる必要はない。それは成熟した社会において、あなたに与えられる正当な権利なのだから。ただ、こういうことは「給食費を払っているのだから、給食の時にうちの子には『いただきます』なんて言わせないで欲しい」なんて真顔で言うようなバカな親には理解できないのだろう。
 天才外科医ブラック・ジャックは、その奇跡のメスをふるうのにあたって「法外な」診療費を要求した。尤も、彼自身は、それを法外だとは思っていないと言う。ブラック・ジャックはその手術に持てる力の全てをかけるし、だからこそ、手術を求める側にも「一生かけても払う」というような強い覚悟を求めたのだ。
 残念ながら、僕はブラック・ジャックのような卓越した技術は持っていない。けれども、もしあなたが真に医療を必要としてくれるのであれば、ブラック・ジャックの患者のような覚悟の一端でも感じさせてくれるのであれば、技術の上ではブラック・ジャックに到底及ばないけれども、彼と同等の強い覚悟を持って、懸命に治療にあたる準備はいつでもできている。マンガの中ではない、この現実社会の多くの医師たちが、ずっとそういう気持ちで仕事をしているのだと思う。もちろん、何千万円もの診療費を要求したりもしない。世界一安くて高度な日本の医療を守るのに本当に必要なことは何かということを少し考えてみてはもらえないだろうか。それはきっとそんなに難しいことじゃないんだ。
 もともと、飴のためだけに働くつもりではなかったから、それはそれなりでいい。真に必要とされれば、飴が無くたって働くと思う。だけど振るわれるムチのもとでおとなしく働くことはないと思うよ。