参議院議員選挙

 愚痴というのはあまりきいていて楽しいものではないと思うのですが、人は愚痴を吐き出すことでなんとか心の平穏を保っている部分もあると思います。愚痴を吐くだけで心のもやもやを解決し、次に進めるのであれば良いのですが、実際は愚痴の原因となった不平不満を奥底に抱え込んだままということが少なくありません。
 外科医として丸九年働いて来た上で、僕も第三者にしてみたらお聞き苦しいとしか言いようのない愚痴を、実生活でもネット上でもあちこちにぶちまけてきたわけですが、愚痴が社会を変えるわけでもなく、僕のそうした愚痴の根底にある現在の医療システムへの不満というものは、建設的に動かなくては永遠に解決しません。
 何かしらの建設的な意見を、国なり大学なり勤務先なりに伝えていくということは、ただ愚痴を吐くだけよりは一歩前に進んだ行動だとは言えますが、やはり決定打に欠けることは否めません。医師不足が叫ばれるなか、目の前の患者さんに向き合う臨床医というのは大切な存在で、現場を離れるということはあまり好ましいことではないと思う一方で、そうした実際の現場を知っている臨床医が直接的に法律や制度をつくる場に参加していかなければ、今立ち行かなくなりつつある医療制度を真に改革することなど不可能だという思いをずっと抱いていました。医師を監督する省庁である厚生労働省には、医師免許を持ったいわゆる医系技官という方々がいて、医師が制度作りに参加するという建前にはなっていますが、ほとんどの医系技官は医師免許を持っているとは言え、臨床の一線で働いていたとは言い難い存在です。そうした方々も含め、医師免許を持ちながら政治や行政に参加している方というのは少なくないのですが、真に臨床の現場に携わるような立場で立場で参加しているような例はほとんど耳にすることができません。現場からは距離のある医師の声を、医師の代表的意見と言われてしまうことには、強い違和感を感じてしまいます。
 一線にいる医師というのは現場において貴重な戦力であり、医療という業務の特性を考えると、現場に欠かすことができないと思うのは先に述べた如くです。しかし、真の臨床の現場から医療制度や法整備の中心に関わる人材を出すべきだという思いは日に日に強くなっており、昨今不安定なの政局とあいまって、誰かに期待するのではなく、自らが国政に打って出るということを考えても良いのではないかと思い始めていたのです。もちろん、政治ということには素人同然ではあるのですが、医療ということにおいては、他の政治家よりは深く分かっているつもりです。医療は国のライフラインであり、それを守るためにはやはり現場でそれを担っている臨床医自身の思いを深く制度に反映させていくことが必要だと思います。僕が全ての臨床医の代表だとは思いませんが、昨今の臨床の一線で身を削って働く医師たちが抱く思いを自身でも感じていたわけで、既存の医師兼政治家たちよりはより現場の思いに近いものを国政に発信していけるのではないかと考えています。
 来る参議院議員選挙に備え、様々な政党が公認候補者の公募を行っています。立候補となれば、公的病院に勤める身としては職を辞さねばならないので、本来ならば医局や勤務先に根回ししてからというのが筋なのですが、政党に公認してもらえるかどうかというのは大きなカケですし、臨床の現場を離れるということへの迷いももちろん大きいわけで、そういう気持ちの整理もつかないまま試しに公募に応じてみたのが正直なところです。先日最終選考のための面接に出かけてきまして、なんだか現実感の無いままに話が進んで、医局や勤務先との折り合いがつけば公認として出馬させて頂けるということになってしまいました。なってしまった、というのが率直な感想です。
 公募に応じておいてなんなのですが、実際こういきなり話が進んでしまうと、果たして立候補をしてしまっていいものかと大いに悩み、今更ながら臨床への未練が溢れ出しても来るのです。医局に一切言っていないというのもあって、新年度で新人事が動き始めたばかりのこの時期に、ただでさえ足りない医局人事にさらに穴をあけることが許されるのだろうかということを考え始めると、どうにも大学へ話をする勇気がありません。落選したら医局人事に復活させてもらえるのかどうかとか、国政がどうとかいう以前にまず自分の生活を心配してしまうわけですが、つくづく選挙というのは一般庶民がおいそれと出馬できるものではないのだなということを感じさせられています。あ、あと、立候補となるとこういった匿名日記とかどうしたらいいんだろうか。

追記(4/2)

 わーごめんなさい。エイプリルフールでした。前にも同じような後味の悪さを感じて、某所ではもうやらないなんて宣言したくせに結局またやっちゃったんですね。なんだろう、程良い嘘がつけないみたいです僕。
 我ながらいやらしいテキストだな、とは思うのです。冗長な前振りで、自分の思いを綴った部分は全て偽りのない真実で、行動の部分がフィクションだったわけです。公募についていろいろ調べていて、チャンスがあるならば応募してみようと思っていたのは事実で、今後チャンスがあれば本当に応募するかも知れません。実生活でもそんなことをつらつらと口に出していたのですが、少し前に母親とそんな話をしていた際に「結局のところ、参議院には決定権が無いんだから、どうせなら衆議院を目指しなさい」みたいなことを言われたりしたのでした。僕には政治的基盤も知識も経済力もないわけで、何の裏打ちもないままに親子で壮絶な妄想劇を繰り広げていただけなのですけれども。あと、法律に医療の現場が蹂躙されているという思いもあって、法科大学院に進んでみようかなんてことも半ば本気で考えていました。過去形というより、現在進行形で表現したほうが正確かも知れません。
 学生時代の一年というのは非常に大きな変化を生む一年だし、研修医になり立ての頃、毎日新しい手技を覚え、初めての手術に入るという変化を、激務に疲弊しながらも楽しんではいたのです。今だってまだまだ未熟で、後身を育てるとか、もっと責任ある立場に立つというようなことを目指して行かなくてはいけないのだろうし、そこへたどり着くためにはもっともっと変化が必要なのですが、同じ時間における変化の度合いというのは年々小さくなってきます。
 生来の飽きっぽさなのか、そうして目に見える変化が小さく小さくなっていき、その変化のためにより多くの努力が必要となってきた現状からの逃げなのか、不謹慎にも外科医としての毎日に少々飽きを感じて、もっとダイナミックな変化を味わうために、全く違う別の方向へ進んでみたいという願望に過ぎないのかも知れません。そうだとすれば、そんな逃げの心で国政へなんていうのは全くふざけた話なのです。
 このまま臨床医を続けていくのか、続けるとすればどんなポジションを目指すのか。あるいは綴った嘘を真実にするために一歩を踏み出すのか。五年後、十年後の自分というのが想像できないでいるのですが、大学院に入学したあたりから時間の流れがどうにも淀んでいるような感覚で、淀んでいるくせに時間はきちんと流れているのです。博士の学位記という紙切れが手元にあるというだけで、五年前に大学院に入学した頃からの変化というのを実感しかねているし、今の僕が、大学院入学時に想像し得た五年後の自分ということでは無いような気がします。ある意味、未来を予想できないというのは、変化を楽しみたい僕にとっては願ってもないことなのかも知れませんが、三十代半ばに差し掛かろうとしている人間のあるべき姿では無いような気もします。どうなんでしょうね。
 僕が国政に出るということを真実として捉えて頂き、応援して頂けるということは、実際にそうして打って出ることが可能なのかも知れないという希望に繋がります。今回は妄想として、嘘としてしか日記を書けなかったのですが、またいずれその時が訪れたら、4/1ではない日付にご報告したいと思います。…ということを前にも書いた気がして、その時の嘘も全く実現できていないわけで実に心苦しいです。本当にすみませんでした。