産婦人科医保釈など

執刀の産婦人科医保釈(福島民友)

http://www.minyu.co.jp/morning/morning.html#morning3

 県立大野病院の産婦人科医による医療過誤事件で、業務上過失致死と医師法違反の罪で起訴された被告は14日、保釈された。福島地裁は同日、被告の保釈を決定。これに対し福島地検が同日中に決定を不服として準抗告したが、却下された。関係者によると、被告の保釈金は500万円で、保釈の条件として病院関係者との接触や海外渡航の禁止などが盛り込まれているという。

医師逮捕・詳報(中)〜血液あふれ出てきた(朝日)

http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000000603150004

「結果論」の声

 医学書によると、帝王切開の回数が増えるほど前置胎盤での癒着胎盤の確率は増す。

 米国の臨床例では、前回の帝王切開の傷跡部分に胎盤が付着している場合、35歳以下で前置胎盤の妊婦のうち、6人に1人が癒着胎盤だった。

 医師の手術前の診断では、女性は「前回の帝王切開の傷跡に胎盤が付着していない前置胎盤」とされた。子宮後壁に付着し、傷跡とは無関係の場合、癒着胎盤となっている確率は27人に1人に下がる。

 事故調査委員会は、カルテや超音波診断写真などから、医師と同じ判断を下した。だが、県警は残された子宮を鑑定し、胎盤が前回の帝王切開の傷跡にかかっていたと結論づけ、福島地検は起訴状で医師もそれを「認めていた」と指摘した。

 「手術前、かりに帝王切開の傷跡に胎盤が付着していたと診断していれば、血液の準備や医師の確保などで、もっと何とかなったのではないか」。そう指摘する医療関係者もいる。

 その一方、ある産婦人科医は「すべては結果論。現実にはわからなかった。これが臨床診療の限界です」と話した。

 結果論という言葉が、一般的にどう受け止められるのでしょうか。医療行為というのは、それ自体が傷害行為であり、医師免許を持たない人が行えば、結果の如何に関わらず、傷害罪に問われるものです。医師は、唯一その傷害行為を認められ、リスクとメリットを天秤にかけて患者さんに侵襲を加えています。

回診中に逮捕

 福島県立病院の産婦人科不当逮捕の瞬間に話題を戻してみます。
 医師の逮捕の瞬間は、テレビカメラに捉えられ、手錠をかけられて連行される瞬間が報道されていました。僕は、普段ほとんどテレビをみないので、これについては、後日ネット上で、はじめてみました。これによって、改めて哀しみと怒りがこみあげ、やはりこの逮捕・起訴は明らかにおかしいという感情を持つに至っています。
 医師は、病棟回診中に、患者の目の前で、手錠をかけられ逮捕されたそうです。そして、その連行の瞬間を「待機していた」テレビカメラがとらえました。この逮捕の情報はあらかじめマスコミにリークされていたわけです。もともと任意での事情聴取に応じており、淡々と仕事を続けており、警察関係者をのぞいて、誰も「逃亡の恐れ」なんて考えもしない状態で、なぜ、わざわざこの瞬間を狙ったのか、疑念は深まるばかりです。
 この医師は、凶悪犯罪を犯したわけでもなく、現行犯逮捕というわけでもないのです。僕は逮捕自体を不当だと考えていますが、百歩譲って逮捕自体を妥当だと考えたとしても、あくまで任意同行を求めた上で、警察署内で逮捕すればすむ話です。
 社会に医者の負のイメージを植え付けるという目的以外に、わざわざ騒動が起きやすい場面に、マスコミまで招き入れて逮捕を行うという理由が考えられません。また、医師の奥様は妊娠されており、夫の勾留中に出産されたといいます。妊婦の死亡から1年、このタイミングで逮捕したのは、医師へ精神的ダメージを最も与え、検察に有利な自白を引き出そうとしたためと考えるのは乱暴でしょうか。精神的や肉体的に追い込むことによって、本意ではない自白を引き出され、あるいは巧妙に意図をすりかえた調書にサインさせ、それを絶対的証拠として有罪とされた冤罪事件は数知れません。
 昨日も少し触れましたが、国がすすめる「医療過誤の厳罰化」や「医療の集約化」といった政策とリンクしているというのも気になるところです。
 以上、具体的事実以外の部分は、無論僕の全くの私見です。しかし、いろんなことがあまりにも、ある何かのために、出来過ぎているように思えるのです。
 (逮捕された医師本人が後日語ったところによると、「回診中に逮捕」というわけではなく、逮捕は、休診日の土曜日の出来事であり、警察署へ同行した後に突然逮捕状が読み上げられたとのことです。一連のエントリには、当時何をソースにしたのか失念してしまったものもあり、他にも不正確な点があるかも知れません。お詫びして訂正させて頂きます。しかし、いずれにせよ、あまり逮捕ということの必然性が感じられないこと、逮捕された姿がテレビで流され続けたのは事実であり、書いた思いに大きな変わりはありませんので、当該エントリは、そのまま残しておきます。2007.1.29)

刑事罰におびえながら当直しています

 例えば、僕は夜間原則レントゲンも撮れないような個人病院にも、緊急のCTまで対応できるある程度大きな病院にも当直する機会があります。明らかに整復の必要な骨折とか、頭部外傷の状態の問い合わせがあれば、検査や専門的治療の対応できない病院でそれを引き受けるのはあまり賢くないやり方だと思います。

 ですから、僕はあらかじめ問い合わせがあるものに対しては、自分のいる病院でどの程度の検査ができるのか、入院のベッドがあいているか否か、自分の専門について伝えた上で、受診を決めてもらうようにしています。もちろん、とにかく患者を病院におろすことだけを考えて、悪意のある嘘をつく救急隊や、説明を全くきかないまま来院し、検査が対応できないことに不満をもらす人というのは存在します。

 もちろん、大部分の救急隊の方は尊敬すべき献身的な働きをしていると思います。ただ、ごく一部に非常に悪意のある嘘をつく救急隊の方がいて、それによってその地区の救急隊をひっくるめて悪く思ってしまいがちなのです。ひどい交通事故で頭も含め全身強打した人を「消化器外科医が当直で、レントゲンが撮れない病院ですけど、それで問題ない患者でしょうか」という問いに「問題ありません」と言って搬送して来たりとか。そうすると、そこから受け入れ病院を探し、紹介状を容易し、改めて救急車を依頼し、場合によっては同乗して再搬送です。この時間のロスは、疾患によっては命とりですので、適切な振り分けというのは必要だと思います。さて、ごく一部の救急隊が嘘をついてまで搬送してくることがあるというのは、その背後に、病院がなかなか受け入れないということもあります。しかし、これによって嘘をつくという行為は、さらに受け入れ病院をかまえさせるので、悪循環に陥ります。またこれは、すでに専門外や厄介ごとを極力を避ける「防衛医療」に傾いていることの現れでもあります。とにかく、もう少し効率の良い振り分けのシステムを考えるべきだと思います。

 バックアップ体制の全くない病院で一人で当直している時、すでに他の病院にかかりつけの心臓病患者で、十中八九心臓に起因する発作の症状を呈しているのに、「受診歴はありませんが、家族がそちらの病院のほうが通院やお見舞いに都合がいいと言っているのですが」という問い合わせを受けたことがあります。救急隊を通じたやりとりでは「専門じゃなくても先生が診てくれるなら…」というようなことを言っていたので、さすがに家族を電話口に出してもらい「病気の情報も緊急の治療体制もない病院で、お腹の医者が診て、最悪死んでしまっても構わないならつれてきてもかまいませんが、かかりつけの病院も救急体制があり、心臓の専門なのですから、そちらへ行くべきだと思いますが」と、強い口調で伝えました。こういう場合、あらかじめ専門でないことを説明していても「でも医者なんだから適切に対応すべきだった」と揉めやすいのです。昨今の風潮では、これも、実際に受け入れて、処置が間に合わず患者が亡くなったりすれば、「専門医にすみやかに搬送すべきだった」とか、「医師が未熟て、適切な医療が行われなかった」と言われかねません。

 専門ということを、実質的にはほとんど理解してくれないことが多いし、最近では、施設による、あるいは診察時間による体制の差ということを無視し、「いつでも、どこでも、全く同じ最高の医療」を求めてやって来る人が多すぎるのです。救急外来では、あくまで「応急処置」であると説明するのですが、そこで全てを解決しようとする人が多すぎます。かくして、1週間前にぶつけたところが、なんとなくずっと痛いという人が、急激に痛みが強くなったというわけでもなく、夜中に「心配だからレントゲンを撮ってくれ」とやって来たりするのです。

 振り分けについても、時間的ロスを気にしないのであれば、一度来て貰った上で、対応できる範囲内での検査を行い、搬送というのでもいいのですが、時間外診療で困るのは、一端診療を行った上で、すぐに検査や搬送が必要かどうかがグレーゾーンの場合です。例を挙げれば、高齢者の頭部外傷とか、症状の強い腹痛とか。典型的な症状を呈さなくても、緊急性の高い疾患が隠れていることが多いものです。

 自分の施設で速やかに検査ができるのであれば、CTやレントゲンを撮ったり、採血したりするのですが、そういった検査は、どの病院でも24時間できるというわけではありません。かといって、真夜中に技師を呼びだして検査をするほどなのか、朝を待たずに緊急的に他の施設に紹介するべきなのかとかいった判断は、よほど特徴的な症状が出ていない限り難しいのです。次善の策として、「こういう症状が出たら、すぐ連絡を」とか、「こういう症状が出たら、朝まで待たずに脳外科へ」とかいう説明をし、説明書を渡し、一応の注意・説明義務を果たしたことにしているのです。患者さんにしてみれば、今心配で、今来たのだから、今最大限の検査を、ということなんでしょうけれど、そういう体制にするためには、医者も看護師も今の数倍は必要です。

 もちろん、そんな悩ましいのであれば、全例CTでもレントゲンでも撮れば、診る側としても楽は楽です。ただ、これは現実的ではありません。そもそも、CTを撮れば被曝もします。結論とすれば、症状からある程度推察して、医師の裁量で検査を決定するということになります。でも、実際は、患者の求めに応じて検査をする機会が多いのです。患者さんに「心配だから検査をして下さい」と言われてしまうと、医者としては、強くそれを否定しにくいのです。典型的な症状が無いから検査を行わなかったとして、「結果論として」何らかの異常があった場合、「医師の判断ミスだ。医療ミスだ」と言われてしまうのです。

 割り箸事件(参考 http://erjapan.ddo.jp/index.html )でCTなどを施行しなかったということが争われていますが、これも、報道されている内容からは、受診の時点での患児の意識状態や、医師側に割り箸が体内に残っている可能性があるという情報を与えられなかったという点を考えると、その時点での判断ミスということではないように考えられます。この事件以降、ほとんどの病院の救急外来で、免罪符のように「頭部外傷後の注意書き」を配るようになりました。割り箸事件の被害者に対しては、不幸な結果になってしまったことにたいして哀悼の意を捧げますが、仮にCTやMRIを施行したとして、残念ながら救命できなかったであろうことは、多くの医療従事者が感じていることであり、この件で医師が逮捕・起訴されているということは、おかしいと考えています。

 さて、話題を戻します。連絡無しに受診したものに対しては、当然診察の上で判断すればよいことですが、問い合わせがあったものに関しては、その時点である程度の情報が得られるのであれば、やりとりで多少の時間的ロスがあったとしても、適切である病院に直行するメリットが大きいと考えます。なんでも無条件で受け入れるというのは、必ずしも正しいことではないという判断です。もっとも、ここには、日本の救急システムにおいて、救急隊員の可能な処置や判断がかなり制限されていたり、とても古い基準のまま、病院の「救急指定」を行っていたりという根本的な問題があるので、もともと、振り分けがうまくいかないようにできているのですけれど。

 当然、他の適切な病院が受け入れられないということであれば、専門外のものや、対応が困難と思われるものに関しても、それを受け入れることを拒みはしません。場合によっては、他の病院かかりつけの患者さんが、心肺停止ということで運ばれてくることがあります。正直、その時点で死亡している気がしないでもないし、その場合、救急車よりもまず警察なのではないかとも思うのですが、実際は、どう考えても蘇生不可能と思うような心肺停止状態で、相当数の救急搬送があります。この場合、かかりつけの病院に搬送されれば、事件性や不審な点がみつからない限り、それまでの病名とからめて「死亡診断書」が書かれることが多いと思います。「老衰」としか書きようのないものもあると思いますが、そう言えば僕は「老衰」という診断書を書いたことがありません。受診歴が無い病院に運ばれれば、それが事件性のないものと思われても、おおむね警察へ連絡、死体検案を警察とともに行い、遺体のCT撮影だとか、かかりつけ医がいればそこへの連絡などを行い、警察と相談しながら死因を推定し、検案書をまとめることが多いです。問題がおきそうな場合は司法解剖となるわけです。僕は1例だけ経験があります。このあたりの扱いも、はっきりしているようで曖昧な点も多いのです。異状死の定義は曖昧で、検案書と診断書の境目も非常に曖昧。大野病院の事件を受ければ、救急車で運ばれてくる心肺停止の症例は、ほぼすべて警察に連絡することになるでしょう。

 一晩病院に泊まるということは、こうして相当のリスクを背負うことであって、こうして応召義務として縛り付けられながら、結果責任として刑事罰をちらつかされるということは、医療事故の抑止になるとは考えにくいです。どう考えても、最も安全な道は、やっかいごとに手を出さない防衛医療なのですから。でも、防衛医療は健康を防衛しません。

 そもそも、自分の身だけを考えるのであれば、医者になんかならなかったわけです。外科医という道を選んだこともあり、やはりリスクがあっても、そこにメリットを見出せるのであれば、難しい症例に立ち向かいたいのです。しかし、そこへ医療の素人が「無謀な手術だったので逮捕」とか言って出てくるのであれば、メスを持たないという選択をするのは已むを得ないのではないでしょうか。手術の度に、合併症の説明は必ずしていますが、実際にそれが起こってみれば「ミスはなかったんですか?」と言われてしまうことは少なくありません。

 こういう雰囲気をつくりだした背景に、一部の心ない医師が、ミスの隠蔽を行ったことがあるということは否定しません。ですから、医者はその事実を念頭において、謙虚であるべきです。ただ、同時に、患者さんは、医療のプロの判断を尊重するべきです。患者さんに無限の選択の権利があるとは考えません。やはり、妥当な医療の範囲から、治療を選択して頂くことになります。望むままに検査を行い、好きな薬を持っていってもらうということではないと思います。患者さんとのやりとりに疲れ、言われるがままに薬を出しているような医者が「優しい先生」ともてはやされ、口うるさく食事指導をしたり、不要な薬は処方しない医者が「薬も出さないヤブ」とか言われてしまう現状は、なんとかすべきだと思っています。