「正しい日本語とハングルと」-0084-

 とうとう、明日でテストも終わりです。これを終えれば、卒試まで試験はないのです。もう、一生定期テストと呼ばれるものにはお目にかからないのでしょう。最後の給食を食べたときに次いで、感慨深い一瞬。…再試が無ければの話なんだが。

 こんこんと湧き出す知識の泉が、我々の中を、怒濤のように流れ去っていく。流れる水の中に輝く砂金を拾い出すように、我々は確かな知識を得ることはできたのだろうか。テストが終われば、卒業式やら追いコンやら、別れの季節がやって来て、あっというまに四月の風があらたな出会いを運んでくる。年度の始まりに、私は一つ齢を重ねる。そんなわけで、四月には、年の始まりを全身で感じるのだ。

 打ち上げのお知らせと共に「みんなでポリクリができるといいね」というメッセージ。このメッセージには、「みんなでポリクリをすることはできない」という前提があるということに気付いてしまう。一緒に入学したみんなと、一緒に卒業しちと思っても、実際は、いくつかの壁に阻まれているのだ。

 クラス替えは無いけれど、この進級という壁と、ポリクリ班編成といったものに、また出会いと別れの図がある。3月の中頃まで、少しずつ結果が明らかになっていき、最終判定を待つ。一年で一番落ち着かない時期。最近、電話も怖い。不合格の通知かも知れない。

 全然大丈夫だ、なんてコーヒー片手に同級生と話し込む。…そういえば、「全然、全く」は「全然〜ない」という構文とともに、「全然大丈夫」「全く大丈夫」という表現も、文法的に正しいはずです。したり顔で、正しい日本語を使いましょうなんて言いながら、「全然大丈夫じゃないっていうのが正しいんだよ」なんて言ってる奴を見ると突っ込まずにはいられない。また、「時代と共に表現は変わるから」といっている人もこの場合は同様。っていうか、もともとは逆に「全然〜ない」という表現のほうこそ使われなかったようですね。確か、「藪の中」にも同様の表現があった気がする。これは、芥川が文法的に誤った唯一の例だとか、意図的に使ったとかいう論議もたまにあるみたいだが…。

 時代の流れと言えば、見れる、食べれるのら抜き語に関しては、本当に言葉の乱れなのか? 見られる、食べられるは受け身と尊敬の両者の意を内包するが、ら抜き語は受け身のみしか表さない。どの時代の言葉を、乱れていない基準とするのかは知らないけど…進化と呼んでもいいのでは? ついでに、「そのとうり」ってあってるの? 小学校では「とおり」が正しいと学んだ気がするのだが。

 韓国で、漢字の復活を進める動きがあるようです。漢字文化圏との交流のためには、もともと漢語なのだから、一部漢字を使った方がいいだろうとのことで、大統領は概ね賛成らしい。国民感情は難しいところのようだが。もともと漢字=中国に対抗する意味で漢字を捨てたという部分もあるのだと思うし。ハングルは合理的な字ではあるけれど、人工的すぎて「美しくない」と言った人がいた。これは朝鮮半島のかたに失礼なのかも知れないが、私もハングルという字はあまり美しいと思えない。日本人に「ハングル酔い」といわれる現象があるようだ。「アンニョン」が「安寧」と知るだけでも、酔わずにすむ部分は確かにある。

 もともと、同音異義語が多いようで、ハングルで音だけにしてしまったばっかりに、外国人にとっては、合理的な字だから読めはするけど、意味が取れないらしい。日本人のハングル酔いの原因ともされる。北朝鮮の「ノドン」も本当のところは「労働」という字ではないんじゃないかという学識者もおられるようで。なんだか、別の字がぴったり当たるらしいが。

 昔、日本語をローマ字表記にして、仮名を廃止する動きがあったようだ。昔と言ってもはるか昔だが。これは実現しなくて正解でした。仮名を捨てる必要はありません。外国人が読めないのなら、ローマ字もあわせて表記すればいいだけの話です。横書きも可能だし、外国語をそのまま仮名で表記できるし、優れた文字だと思います。英文メールなんかをしたためるとき、自分の名前が、意味を持つ漢字から、ただの音としてローマ字になってしまうとき、なんだか哀しく感じることがあるのです。