「永遠が怖いのは」-0284-

 私にとって、「永遠」ということほど怖いことはないのです。全ては永遠じゃなくて、変化があり、終わりがあるということが、楽しいことを楽しいと思えて、辛いことに耐えられるという唯一のよりどころです。これは、死生観にも通ずるところがあって、もう、不老不死なんて怖くてたまりません。輪廻転生も、場合によっては遠慮します。これは、もしかしたら、終わってしまえばなんでもいいという、深層心理にあるかも知れない、自分の無責任さの現れかも知れません。私にとって、なんにしても、「終わり」ということほど安らぎを覚えることはありません。なんか、誤解を招きそうな表現ですが、時間軸から転げ落ちて、うつりかわれる、終われる権利を放棄することに、なんの意味があるのかな、と思ってみたりするのです。別に今死にたいとかいうことではなくて。

 永遠が怖くて、さらには、小さい頃押し入れが怖かったように、監禁は私にとって死より恐るべきものなんです。最近報道されている9年2ヶ月の監禁生活なんてきくだけで身震いするし、懲役何年、の、年の単位に恐怖し、時に、自分が冤罪で繋がれる悪夢に汗をかくのです。死ぬことが怖いと教える道徳や宗教はすなわち、実は延々と続く苦痛よりは、瞬間的な苦しみと死のほうが、現在科学で明らかな部分に関して言えば楽であるのに、それを避けようとする、種の保存の本能の現れかも知れません。そして、なんであれ死に苦痛を伴うことは確かで、苦痛が無ければ、人はもっと容易に死を選び、快楽が無ければ人は子をつくらないかも知れません。

 将来に対する不安というのも、私にとっては永遠に対する不安と一緒です。今までは、常に次にステップアップすべき段階が、純粋に場所の変化というかたちで目に見えていたのが、ひとたび社会に放りだされれば、ほぼ一生、その飯のタネにしがみつく可能性が高いのです。将来の目標があるからこそ、理不尽とも言えるテストや実習に耐えてきた、というのは実は大いなる勘違いであって、実は、大騒ぎするほどテストが辛くなかった気もするのです。それはひとえに、その瞬間を乗り切ったあとの終わりが明確であるからで、結局は大学生になってなお、ドリルと偏差値の一律教育のぬるま湯にどっぷり浸かっていただけかも知れません。見えない将来を永遠とかいう言葉で片づけ、だれかに目標を提示してもらおうとしているだけなのかも知れません。