「私生児」-0288-

 以前、看護専攻の某嬢が、助産婦コースをとっている同級生が「私生児」という言葉を知らなかったことにびっくりした、と語ったのです。そして、あるいは日本の国語教育の中では習わないかも知れないスラングや、あまり上品では無い言葉や、なんだかよくわからないうちに差別語とされてしまった言葉の数々を、いったい自分はどこで覚えたのだろうと言うのです。彼女と、彼女の別の友人との会話の中で、思春期に触れていた「スピリッツ(=小学館マンガ雑誌)に違いない」ということに落ち着いたらしいです。こういうふうに書くと、マンガ否定のようにとられるかも知れませんが、彼女らは、そういった知識を得る上で重要なメディアだ、という捉え方をしており、私としては、別にマンガに限らず、活字を読んでいれば自然に入る知識じゃないか、と言ったのです。

 農家が、自ら「百姓には百姓の意地がある」と語るような場面に放送局の自主規制が入る昨今、例えば、「私生児」という言葉も、積極的に使うべき言葉ではないのかも知れません。ただ、それらの言葉が存在することは確かで、普通に本を読み、普通に日本社会で生活すれば自動的に入ってくる情報だと思うのです。あまり良くない言葉、というのは確かにありますが、それを知らずに生活してしまうことは危険だと思うし、良くないことは良くない、という知識を持った上で、豊富なボキャブラリーの中から、品位をもって言葉を選びたいところです。

 先ほどの話では、他の人はいざ知らず、お産に立ち会うような職業を目前に控えた身でありながら、そういう言葉を知らないというのは後々困るのではないか、ということなのです。言葉以外でも、その領域における十分な知識無しに、その良くない概念から、誰かを遠ざけることはうまくいかないと思うのです。

 タバコをやめさせるにはタバコを知れ、ということで、これは別にタバコを体験しろ、ということでは無くて、少なくとも公平な立場から学習せよ、ということです。また、マンガとか、ゲームとかいう、体にたいした負荷を要しないものならば、実際に体験してみるべきだとも思うのです。

 活字の話に戻ると、我々は日本語の活字を追う時、難解な語句や、読めない漢字のすべてを、いちいち辞書を引いて調べることはしないで、しかし、おおよその流れは理解します。そんなわけで、今更ですが、柔軟に英語を受け止めるのに、辞書を使わずにペーパーバッグを読んでいます。日本の英語教育のまずさが語られますが、私に言わせれば、日本語教育も同じレベルだな、と思うのです。結局は、自らが、その言語で書かれた文書や、その言語が語られる生の部分に触れてこそ、修得できる部分が大きいと思うのでした。

 明日からポリクリ(病棟実習)は最終週へ突入。眼科でラストスパート。