「アメリカ旅行記その1」-0296-

 髪を切りました。これでもかというくらい短くしようと思ったのですが、適当なところで収まりました。とは言っても、今までの半分以下の長さです。こんなに短くするのは実に12年ぶりだということに気付いたりもしました。風があまりにも鬱陶しかったのですよ。で、旅行記その1。

 3/5(日)、医学部とは別団体の、教育のキャンパスにあるジャズ研の連中の飲みに強引に混ざる私なのです。教育のキャンパスのサークルなのに、学部が工学部のやつらばっかりで、飲んだ後帰る手段もなくて、気付けば我が家にいるのです。軽く飲むつもりが、ベースの後輩が日本酒ばんばん頼んで、気付けば普通に飲んでました。1年生はみんな潰れて、サックスの車とか、私のコートなんかに吐いたりしてるのです。養老の滝でひたすら飲んだ後のカラオケは、むしろただの叫びで、そのあと流れる我が家で、最終的には朝まで麻雀。

 3/6(月)、ベッドはだいぶ前から1年生に占領されていたので、自分ちの床で少しだけ眠って、そのまま駅まで送ってもらい、シャトルバスで成田へ向かうのでした。スポーツバッグに適当に詰めた荷物を持って、空港についてみたものの、そういえば靴下を持ってきていないことに気付くのでした。空港で2足だけ買って、旅行中、風呂場で洗って使うことにしました。なんにしても、夕方6時発の予定だったデルタのアトランタ行きは、昼過ぎに空港についた段階から、「22時発に変更」とあっさり表示され、前日からほとんど寝ていない私にとって、長い長い一日になるのでした。

 旅に同行してくれた同級生は、海外初体験で、最初、「機内食が楽しみ」などと志の低いことを言っていたのですが、帰るころには、他の多くの旅行者がそうであるように、ローカルタイムにあわせてひたすら供給される高カロリー食品にうんざりしているようでした。とにかく、アトランタ経由でニューヨークまで、あわせて十数時間のフライトの後、既に光を落としたエンパイアステートビルにほど近い、ホテルウォルコットに落ち着いたのは、深夜2時頃なのでした。目と鼻の先はリトルコリアと呼ばれる一角で、確かにホテルの周りにもハングルの看板が目立ち、5番街とブロードウェイの間という立地は、深夜でも人通りのある、割と治安のいい場所で、少し散策するつもりだったのですが、それよりは早起きしようと、シャワーを浴びて、3時前には寝るのでした。

 3/7(火)、7時には起きだして、通りをぶらぶらと歩いてみました。ニューヨークは大都会ですが、東京とは違うと感じるのは、ビルがそのつくりで特色を出そうとしていることで、会社名をぎらぎらさせてアピールするようなことが無いということです。また当然、戦争で焼けた跡があるわけでなく、古く、趣ある建物も多いのです。

 アメリカの食文化に触れる最初に、スタンドのベーグルよりも、デリのサンドウィッチよりも、マクドナルドのブレックファストを選ぶ私たちなのでした。スクランブルエッグとハッシュポテトと肉。アメリカのマックがそこにありました。

 ニューヨークに2日しか滞在しないというスケジュールで、当初、ミーハーなスポットを自力で回ろうと思っていたのですが、初日は現地発のツアーに乗っかることになり、朝飯を食って落ち着いたあとは、集合場所へ向かいました。MSG(マジソンスクウェアガーデン)の真向かいに、ペンシルヴァニアというどでかいホテルがあって、そこのロビーをうろうろしていると、関西弁のガイドが私たちを迎えてくれました。

 ニューヨークの主要な地域を、軽快な関西弁の語りと共にドライブし、ぐるっとまわってエンパイアステートビルに登ると、観光客だらけで、子供もたくさんはしゃいでいて、これはきっと、地方から来た人間が東京タワーに登るようなものなんだろうな、と思ったのです。そういえば、ニューヨーク版はとバスもありました。アップルツアーの2階建てバスが、マンハッタン島をあっちこっちに走っていて、路線バスが走って、自家用車もちょっと走っていて、あとはみんなイエローキャブだというのが、ニューヨークの道路の印象です。

 ガイドがアフリカンドラムを叩いているというので、先輩に、ジェンベ(アフリカンドラムの一種)を叩く人がいる、という話をすると、音楽話が盛り上がり、関西でブルースをやっていた話など、いろいろと、ニューヨークには全く関係ない話を長々としていたのです。チャイナタウンで、他のツアー参加者と昼食をとったのですが、その中に、よくよく話すと、そのジェンベを叩く先輩と、予備校が一緒だったという人がいたのでした。現在は名古屋に住んでいるのですが、実家は、私の通う大学の隣の村なのだそうです。まあ、何かの縁かも知れません。

 ニューヨークは思ったよりもだいぶ暖かく、来ていたコートは小脇に抱えてフェリーに乗り込み、自由の女神と写真を撮るのでした。観光地価格で売っているホットドッグとか、女神の王冠をかたどった帽子のお土産品なんかを見ると、そういうのはどこの国でも一緒だなあと感じるのです。気持ちよい風に吹かれた午後でした。

 駆け足で国連本部なんかをみたあとは、5番街でガイドと同行者達と別れました。私たちとは別にニューヨークに滞在中の大学の同級生が、午後3時過ぎくらいにブロードウェイのあたりにいるかも知れないと言っていたので、ロックフェラーセンターの前で記念撮影なんかをしたあと、ぶらぶらと下ってみました。この街を歩くという行為は、私にとって旅行の醍醐味であり、観光地を訪れるよりも強く、その土地を感じることができる点で魅力的なのです。結局同級生達は見あたらず、そのままホテルまでぶらぶらと帰りました。

 体勢を整えて、MSGにでも出かけようかということになり、部屋を出て乗り込んだエレベーターに、日本人らしき男性が入ってきて、そのまま一緒に降り、外へ出ました。私たちが日本語で会話するのをみて、彼が話しかけて来たのですが、彼はジョージアに住んで学校に通っており、今後ニューヨークの大学に移るのに、手続きのためにやってきて、事前に探して泊まろうと思ったブロンクスの宿は、実際に現地に赴くとただの廃墟があるだけで、以前泊まったことのあるウォルコットを頼りにやってきたのだと言います。時間もあったので、食事に誘って、デリで大きくて大味なピザなど食べるのです。

 翌日部屋で飲む約束をして彼と別れ、MSGへと向かうのでした。この日のNBA、ニックス・グリズリーズ戦のチケットは、どうにも手に入れることがかなわず、ブローカー手配でプレミアム価格を支払うことになりました。ただ、グリズリーズは圧倒的に弱いので、当日売りのチャンスもあるということで、そのチケットをもとめる列もできており、ふとみると、そこに例の同級生の一団がいるのでした。同級生のボーイフレンドが、その友人たちと、クィーンズにアパートを借りており、そこに身を寄せているとのことでした。後日、ある後輩にこの話をすると、「同級生とニューヨークで会うなんて、なんか格好いいですよね」とはしゃぐのでした。

 同行者は、なんとか空いている前のほうの席で観ようとうろうろしていたのですが、私は、なんとなく落ち着かなかったので、ひとり、チケットのシートナンバーに示す席へ戻ろうとしたのですが、スタジアムは徐々に人を集め、狭い隙間をぬって自分の席へ行こうとする途中、どうやらある少年が床に置いていたバカでかいコーラに思い切り足を突っ込んでしまいました。「ごめんね、これ君のかい?」という謎の東洋人の問いに、彼はそれでも「うん」と答え、「いくらだった?」ときくと、「いや、いいよ」との答えで、無理にお金を渡すのもいやらしい感じだったので、結局「ごめんね」のひとことで終わらせてしまいました。ごめんね、少年。

 試合は終始ニックス優位ですすみました。というか、グリズリーズ弱すぎです。ところで、ホームチームであるニックスのほうは、電光掲示板からなにから、全てが派手に応援するのに、アウェイのチームが得点しようがなにしようが、会場が全く動じないという姿勢に、妙にアメリカを感じました。帰りがけに夜のエンパイアステートビルに登ってみました。チケットブースで私の前にいた白人カップルが、その時間既に終了していたアトラクションをためしてみたかったらしく、しきりに私に「何時までやってるのか」と訊くのですが、同じ観光客で、しかも思い切り東洋人の私が、なんで君たちの知らないことを知っていると思うのか。しかし、この外国人に何かをきかれるという現象は、今後も続くのでした。連れにはきかないくせに。なんでなんでしょうね。

 3/8(水)、どうやら昨夜は、風呂上がりにシャツとパンツでベッドの上に寝転がって、そのまま眠ってしまったらしく、喉が痛いのでした。布団かぶらずに極度の疲れの中で寝て、喉が痛くなるだけで済むのだから、我ながらたいしたもんです。今日も7時に起き出して、美術館巡りでもしようと、街に出てみるのですが、よくよく考えると、そんな早く美術館なんて開いているわけもなく、とりあえずは朝飯を求めてみるのです。どうしてもヨーグルトが食いたかったので、ヨーグルトが売ってそうなでかいデリに入って、パンに卵とハムを注文し、ヨーグルトとトマトジュースを買いました。既に一日中もたれていた胃に、久々に健康的なものが入るのですが、あくまでアメ食で行くのです。気付けばプラザホテルの前まで歩いてきてしまい、日中は観光用の馬車が並ぶという広場に、まだ馬の気配も見えない時間に訪れ、優雅な気分で朝食を摂るのでした。

 目と鼻の先はセントラルパークで、まだまだ美術館開館までには時間もあったことから、その優雅さを継続させるべく、まだ人の少ない公園の散歩を開始するのでした。すれ違う人はみんな高そうな犬を連れていて、どう考えてもこの後仕事をするという感じではないのでした。金持ちごっこを継続するべく、公園内でエスプレッソを買い、テーブルについて写真なんて撮ったりもしたのですが、横で新聞を読んでいたサラリーマンは、突然立ち上がると公園内へ早足で歩き出し、またこちらを振り返ると、他にいくらでもいるだろうアメリカ人でなくて、この私に時間を訊くのです。「これは俺に対する挑戦だ」と主張する私に、連れは「奴らは誰でも英語がしゃべれると思っているだけだ」と言うのでした。

 旅行中IDとしても大いに役に立ってくれた国際学生証は、午前中訪れたメトロポリタンでも、午後の近代史博物館でも割引のために役立ちました。だいぶ駆け足で回りましたが、そのもの凄い展示物の数々に、「普段こんなのみていたら、アメリカ人は、アメリカが世界で一番だと勘違いするに違いない」と思うのでした。昼飯はミーハーにハードロックカフェに行き、Tボーンステーキなんか頼んでみるのでした。その肉と芋とブロッコリーのバカでかさには閉口しますが、二人の大和魂で肉だけはどうにか食いきったのです。

 夕方地下鉄に揺られて、ホテルに一端戻ってから、日本でインターネットを通じて予約していたブルーノートへタクシーで行こうとして、少し早めに通りに出たのですが、ニューヨークの道路を走る車の半分は占めているだろうキャブは、どいつもこいつも客を乗せていて、全く捕まらないのです。MSGのほうなら捕まえられるかと、賑やかなほうへ、賑やかなほうへと向かっても捕まらず、結局は、客をおろしているキャブを見つけて、そこへ走り寄って乗り込むのでした。

 ブルーノート東京には、金銭的な理由でなかなかいけないものの、ここニューヨークでは、この日の「GRAND SLAMJim Hall(g)、Joe Levano(sax)、George Mraz(b)、Lewis Nash(d)というメンバーで$27.50のチャージというお手頃さ。もちろん、ニューヨークの相場としては、ブルーノートは高めなんでしょうが、大人のための夜のスポット、といった店の雰囲気にびびりながらも、間近での大物のプレイに興奮しまくりました。隣に座った雑誌記者のような人も、例に漏れず、何の遠慮もない早口の英語で話しかけてくるのです。「ニューヨークに住んでるの?」が、彼の最初の言葉でした。ただの旅行者で明日には発たなければならない、と答えた後、大学でベースを弾いていることなんかを話したり、彼の好きなプレイヤーの話をしたりしたのです。彼が日本人プレイヤーの名前を数人あげたのですが、ききなれない名前ばかりで、かわりに「日本ではマコト・オゾネやジュンコ・オオニシなんかが有名だ」と言うと、「君はマコトとプレイしたのか」なんて普通に返しやがるのですが、大物が何の変哲もないクラブで普通に演奏していたりもするニューヨーク的感覚では、それは普通のことなのかも知れないし、単なるアメリカンジョークだったのかも知れないです。ちなみに大西順子は知らないそうです。

 宿に戻ると、約束通り日本人の彼の部屋を訪ねてみました。ビールが既に買ってあったので、私たちの部屋の冷蔵庫で冷やすことにして、最終的に、私たちの部屋で親交を深めたのです。水みたいなアメリカのビールを飲みながら、彼のジョージアでの10ヶ月とプッチモニの今後について語りました。