「医学部受験回想」-0438-

 いや、唐突なんですが。

 大学入学の時点では、もうなんか凄く大人になったような気がしていたし、十八歳という状態がそんなに大きくかわることなんて実感していなかったのですが、お腹が痛いといってやって来るティーンエイジャーたちは、明らかに僕とは違う世代で、平成年代の若者たちが既にティーンエイジ入りしているという事実が、僕がもはや十八歳じゃないことを思い出させてくれるのでした。

 以下、学生の頃書いた文章。相当青いです。

 十八歳という年齢。それが一体どんな年齢かと言えば、人生を語るにはまだ早く、都合良く子供ぶったり大人ぶったりしながら、「昔はさ…」なんて言葉を吐くのを、まわりのもうちょっとだけ大人になった人間は、くすりと笑わずにはいられないという時で、社会的に成人として認められるのは映画の成人指定くらいなんです。六畳一間の安アパートに、あれもこれもといらないものばかり持ち込んで、結局畳を埋め尽くし、仕方がないから布団の上で生活するのですが、なんやかんやと実家に電話して、純粋に金のことだけでなく、いろんなことを家族に委任していたことに気付かされる時に、数え上げた年齢という、記号としてのそれには、そう大した意味の無いことを思うのです。小学校の六年間がいかに長いか、とは言うものの、大学の六年間というものにも、六歳児が十二歳になることと同等の、あるいはそれよりはるかに大きな時間的意味を持つということに気付いてしまえば、大学のいろんな理不尽なことが見えてきても、なんだか納得してしまうところもあるのです。

 大学生という響きはそれでも、みんなに平等に特別な意味を持っている気もするのです。今までも同じ学生だったことなんて忘れて、純粋に自らの呼称を「高校生」から、「学生」なんていうくすぐったいような響きに変える時。ある意味そこを人生の最終目標と勘違いして入ってくる人も、逆に人生についてなんてこれっぽっちも考えたことのない人も、中身は高校生の時のまま放り込まれる場所で、だから、場合によっては大人ってこともあるのです。体は食えば育っても、中身はみんなそれぞれなんですが、みんな、そんな当たり前のことをすっかり忘れて、「同い年の」子達と同じ教室の中に机を与えられているんです。それでも、本当に偉い人ほど肩書きなんて必要無いなんてことを忘れて、これでもかというくらいの肩書きを名刺に刷るように、何かに所属していないと不安な人間にとって、その学制は素晴らしいシステムなのですが。

 兎にも角にも、十八で医学部に入ってしまえば、二十そこそこの年には、学籍番号のついた名札をして、教科書をポケットに忍ばせて病院内を歩いているわけでして、そういう意味では、半社会人とでもいうべき存在を経験するのです。別にテスト前に詰め込んだ知識は、所詮先人の功績であるからひけらかすほどのものじゃ無いし、逆に、知り合いに患部をみせられて診断を求められても、まだ学生だからよく分からないと言って逃げ出せる環境なんです。そんな時も妙な話ですが、逆に学生の時分は変なプライドが「知らない」と言えなくて適当なことを答えたりして、医者になってからのほうが、分からないことには「専門外だ」といって逃げることを覚えるようです。まあ、これはある意味冗談で、ある意味真理なのでしょう。現在、医学はもの凄いスピードで進歩していて、細分化、専門化も進んでいます。もちろん、最低限、全身所見をみられなくてはなりませんが、鑑別診断の過程で、自分の手に負えない領域は、他に紹介する勇気が必要だし、紹介せず自分で診るからには、きちんと治さなくてはならない責任があると思うのです。また、例えば飛行機の中などの特殊環境では、救命や疼痛治療はある程度こなさねばなりませんが、根治という面に関しては、神でもあるまいし、全部をひとりで治すことなんてできるわけがないのです。ブラック・ジャックも患者を死なせてしまうのです。

 何故僕が医学部にいるかと言えば、「医者になりたかったから」というそれ以上の意味もそれ以下の意味も無いのですが、「何故医学部に入ったのか」という問いの裏にはいつも、「何故医者になろうと思ったのか」という意味が込められているようです。医師免許をとるためには国家試験に合格せねばなりませんが、まず、その国家試験を受けるためには、医学部を卒業しなくてはなりません。司法試験のように、法科を出ずとも試験が受けられるということは無いんです。すなわち、将来なりたい職業が医者だった場合、医学部を受けなくてはならないのです。ここまで職種が限定された学部も珍しい部類には入るでしょう。まあ、医学部は確かに特殊ですけど、別にそれを大きな声でわめきちらす必要は無いとも思うのです。あと、どんな医者になりたいかとか、何故医者になりたかったのかという話はまた別の問題で、一般に、世間は時に医学部批判なんてしてみながらも、「数学が好きだから」と理学部に進む人は責めないのですが、単に「医学が好きだから」と医学部に進むことにはあんまりいい顔をしてくれませんね。確かに、命を扱う学部であることは確かですが、純粋に医学が好きだとかいうことには、やましいことは決して無いとは思うのですが。

 個人的には、偉そうに能書きをたれる奴ほど信用できないと思ってしまうのです。僕は別に、生まれた時から医学部を志望していたわけではありません。運命のような医学部志望を語る人はわりと普通にそこに立っているし、みんな、たかだか学生のうちから「医学部」を異様なまでに神格化していくのです。確かに、臨床家として患者と向き合うときには、ある意味神格化されたイメージと、職業人としての誇りと自身は必要で、また、人格を問われることになってくるのです。「あいつには医者になって欲しくない」という気持ち、これも凄くよく分かるし、僕自身、特定のだれかに対してこういう思いを抱くこともあります。しかし、実際問題として、法的に逸脱したりしていない限り、人が人の人格を判定することなんて不可能で、今まではなかなか難しかったのですが、今後は、患者に評価されない、また、医療チームに評価されない医師は、淘汰されていくのではないかと思いますので。これは、技術、知識、人格など、全ての要素に関してですが。厚生省がいたずらに「医師は過剰だ」というのは、ある意味正しく、ある意味間違いで、絶対数としては、良くない医師が淘汰できる程度に増えており、地域的にみると、大きな較差があるのです。

 まあ、本当に、気付けばアパートから大学へ通っていたのですが、僕が医学部を真剣に志したのは高校三年の夏休み明けなのです。一般的には非常に遅い時期であることは分かっています。その間に、お涙頂戴の事件があったわけでも無いし、実家はサラリーマン、父方の祖父母は農業を営み、母方は理髪店という環境で、幼児体験にインプリンティングされる環境でも無いですが、そんなこととは無関係にも、どうも人は医学部を志すようです。そもそも僕は血をみるのが大の苦手でした。そして、恐らく今でもあんまり好きではありません。注射も薬も嫌いですし、なんといっても病院が嫌いです。病気になると行くところですから、つとめて好きにならずとも良いものですし。自分の傷口でさえ目をそらしたくなる僕に、医者になろうなんて考えはもともと全く無かったのです。それともう一つ、「医学部なんかに行く金が、うちにあるわけは無い」という大いなる誤解がありました。

 国立大は、学部に関係なく授業料一定なのです。まあ、医学部は6年ありますので、2年分余計かかるのは仕方ありませんが、例えば我々平成7年度入学生は、入学料270,000円、授業料年間447,600円が、卒業まで保証されているのです。私立大はやっぱりほかの学部とはケタの違う学費が必要ですが、これはこれで仕方がないと言えます。医学部の学生を育てるためには、それでけお金がかかってるってことで、私大は決して潤っていないし、第一、多くの人は信じませんが、病院自体、黒字にするのは非常に難しいのです。どちらにしろ、国立大というからには、国からの補助が大きいから、こういう格差が生まれるわけですが、教育の機会均等のためには、国立大の学費一定のシステムは守られねばならないことは強く言っておきたいところです。近年、入学時の学費が保証されず、新入生と同じ額に移行される学費スライド制の導入や、独立行政法人化といった流れが激しいのですが、僕たち庶民にとって大きな問題は、経済的に学ぶことが可能なのかということなんです。

 お金という問題は、別に医学部に限らず、大学に通うためには、必ずのし掛かってくる問題です。やはり、親の援助無しでは、今の僕の生活もありえないわけです。具体的には、月額四万円強の育英会奨学金と、月額二万円の出身市の奨学金を受け、加えて両親に数万円の補助をしてもらっていました。その他アルバイトなどをして、家賃と、光熱費、水道代で、だいたい育英会奨学金分は消え、その他を食費等に当てています。高い教科書などを買うとこれでも苦しいので、多少親から援助してもらっているのですが、まあ、恵まれていると思いますし、まだまだ甘えている部分も多いです。アルバイトは主に家庭教師や塾講師などで、時にコンビニやファミレスなどのバイトをする者もいます。長時間とれるならコンビニなどでも良いのですが、短時間でも実入りが良いのはやっぱり教師系バイトです。そしてやっぱり、パチスロがバイトだと言ってる奴もたまにいます。

 そんなわけで、それまで、何となく工学部を志望していた僕は、突如医学部行きの意思を固めたため、受験計画は全て白紙に戻りました。ところで、全く関係無い話ですが、医学部志望の理由は、「何々だから」という理由付けというよりは、僕の気持ちの問題に大きく関わってくるし、そういうことは概して説明するのが面倒なので、誰かに訊かれたときは、「ブラックジャックにあこがれたから」とかいうようにしています。あながち嘘でもありません。Eisenmeger症候群の治療について説明しなさいという問いに、いつか「患児の血管を母親の循環系と繋ぐ応急処置をし、成長を待って再手術する」とか書いてみたいと思ってます。なんて、そこらへんまで行くと本当に漫画としての世界になってはしまいますが。医学関係者以外のかたとブラックジャックをよく知らない方、マニアックでごめんなさい。Eisenmeger症候群とは、まあ、そういう病態があって、普通は手術を行うと死亡してしまうため、禁忌なのですが、ブラックジャックは前述のような奇跡の手術をやったということなのです。そしてやはり「奇形腫について述べよ」には「ピノコのこと」でしょう。話が脱線してばかりですが、とにかく、偏差値第一主義の当時にあって、模試のデータもなにもない状態で、医学部受験計画が立ち上がったのです。

 これも気持ちの問題ですから、うまく説明することはできないのですが、当時の僕は、東京に出ることを嫌っていました。今にして思えば、学生時代くらい東京にいても良かったななんて思うのですが、後の祭りです。ただ、当時の僕は良く言えば純情だったし、悪く言えば田舎者でした。医学部志望にかえた時点で、東京行きは不可能に近くなったという話もありますが、当時の僕は、データもない状況だったから開き直っていただけなのか、受験に対する学力的不安というものをそんなには感じていなかったように記憶しています。実際は、数少ないデータでは合格可能性最低ラインのD判定をはじき出されたりしていたのですが、クラスの中で、志望大学がD判定の、担任曰く「その一角」にいた僕は、まだまだ笑い飛ばす余裕が持てたようです。とにかく、大学が人生のゴールじゃないという意識と、実際の受験までには、準備は万端にしてのぞんでみせるという意気込みだけは確かだったので、受ける前から、「今年ダメなら来年」と考えることは無かったです。

 ある朝、担任の物理教師が、「あなた、どうせ何回も受けないと受かんないんだから、推薦受けなさい」と、わざわざホームルームのときに叫ぶのです。「そうすれば、あと前後期と全部で3回受けられるから、どれか1回くらい受かるかも知れないでしょ」と、もはや激励でもなんでもない言葉を受け、推薦枠を多くとるある大学医学部の受験を決めたのでした。ちなみにその教師は、あるクラスメイトの推薦試験結果が出た日、移動教室で数学を受けていた我々のところへやってきて、「試験結果知りたい?」と大声で叫び、それに「どうしようかな、後でいいです」という答えを受け、「ああ、そう。う〜ん。まあ、頑張ってね」という台詞を吐き、その場にいた全員が彼の不合格を明らかに悟ったという逸話にあらわれるように、なにかとファンキーな女性でした。そうして、「理系だから推薦書を書くのがが苦手」だという担任のもとへせっせと通って、「共同で」推薦書を完成させ、下校時は、横山光輝三国志と、小論文の書き方とかいう類の本を「立ち読み」してから帰りました。どうも、小論文関係のテキストは、僕のツボにははまらず、やたらつまらない文章ばかり書かせているのが気になったし、値段が高いのも気になり、買うまでには至らなかったのです。イミダスなんかもちらっとは見ましたが、あの程度の言葉は、義務的にああいう本で暗記するよりは、新聞やテレビから生きた知識として入ってくるほうが面白いと思い、今まで通りの知識の吸収で問題ない気はしました。

 まあ、今だからこそ、こんなにも格好いいことを書けるというのもあります。実際は、当時「ホスピス」(=ターミナルケアを行う病院)を「ホスピタル」の略称かなんかだと思っていたくらいですから、まあ、「ホスピス」という語を知らないよりはマシだったにしろ、「医学を志すのなら」と、下準備のために多少はそういった語彙集の恩恵にも預かりました。どちらかというと、流行語を「コギャル語」とかいうふうに分類して、真面目に解説を付けていたりするページばっかり読んでいた気もします。

 で、受験日、電車に乗って行ったのですが、その電車はうちの高校に遠くからくる人々の通学列車で、学校の一つ前の無人駅から乗り込みました。これは所要時間二分で、駅までいって列車に乗って、駅から学校へ歩くより、直接自転車で学校に行ったほうが早く、この最短記録は七分。雨の日とか、歩いていくよりは早いので、たまに利用していたのです。しかし学校最寄りの駅で降りない僕に、友人たちが、「何? 受験」とか訊くので、とっさに、「浅草大学の国際学部提灯学科」とか答えた記憶がありますが、友人達は「提灯学科」はともかくとしても、「浅草大」とかは堅く信じていたようです。そんな大学、少なくとも当時は無かったはずです。突然医学部志望に転じたことを知っている友人はまだ少なく、どうせ三回受けるつもりで、落ちてなにかと気を使われるのもいやだったので、黙っておいたのです。

 試験会場では、ネイチャーやらサイエンスのスクラップか何かを熱心に読んでいたり、中には「手術の手順」なんていう自作のファイルを読んでいる人までいて、一種異様な雰囲気でしたが、後に、高校に残した後輩のために受験資料の心構えの欄に「まわりの人間は難しそうな本を読んでいました。自分も気持ちを高めたり、周りにプレッシャーを与えたりするために、難しいそうな本でも持ち歩いてみるといいかも知れません。周りに飲まれるよりは、余裕そうな態度をとって相手を飲みましょう」とかいう感じの、全く役に立たないアドバイスを残した内容を、そのまま実践し、とりあえずは赤本なんかを読んでいたのも途中でやめました。そして、出発前に、例の担任に「すぐ期末試験だから、そっちの勉強もしておかないと、学校の成績落ちるから気を付けてね。推薦なんて、どうせ受けるかどうかわかんないんだから、期末、手を抜くと、次受けるとき、内申でひどい成績が大学にいっちゃうよ」というひどい激励を受けたのを思いだし、推薦試験には無い、数学の勉強で時間を潰していました。担任の一連の発言は、実際にそういった内容のことを言われているんですが、担任の名誉のために追記すると、僕が普通に励まされたりするのを嫌うのをわかっていたのかも知れません。どちらにしろ、嫌味を言われるわけではないし、どうやら人を選んで言葉も選んでいることだけは確かでした。

 まあ、その間、どういった経緯があるかどうかはよく分かりませんが、僕は普通に高校生活を送り、結果として十二月には学校を通して合格通知を手に入れ、気楽な正月を過ごすことができたのです。確かに、紅白もお雑煮もある冬でしたし、苦労がどうとか、意識がどうとか、槍玉にあげられやすい区分ですが、そこらへん、不正をしたわけではないしどうこう言われる筋合いは無いと思ってはいます。とりあえず医学部の正規の過程を無事終了できたということで、その正当性は証明できたのでしょう。