「或る木曜日」-0439-

 いつだったか忘れてしまったのだけれど、僕のある木曜日の生活。

 予定手術の無い日に、仕事の整理をしたいところです。患者さんの部屋にいないときの僕らが何をやっているのかは分かりにくいと思うんです。大学一年生の頃、早期体験実習とかなんとかで、神経内科だかの病棟に一日だけ行ったことがあったのですが、その当時、「とにかく看護婦さんは忙しそうだね。医者はあんまり働いてなさそう」なんていう感想を持ったものでした。

 外科医である僕らは、手術室という分かりやすい別の仕事場があって、昼間長い時間病棟を留守にする理由としてはそれらしいのです。じゃあ内科医は何をしてるかと言えば何かしているんですよ。検査だとかそういうことの他にも、治療方針を考えてみたりする時間も必要だろうし、カンファレンスなんかもあったりするわけです。病院という組織にいれば、院内感染対策委員会だとか、病棟会だとか、なんだか話し合いのようなものもあるのです。

 保険だとか面倒くさいシステムのために、なにやら書類書きも僕らに患者さんの数だけ積み上げられていく仕事で、診断書とか紹介状とかその返事だとか退院時サマリーだとか、カルテ記載以外の物書きがやたらと多いです。僕は昔から人差し指の他に中指も添える、筆の持ち方のような変なペンの持ち方をし、藁半紙のテスト用紙を何度も破き、シャーペンの芯を何度も折るような筆圧をかけ、やたらとでかい字を書き付けるので、大量の物書きはすごく手を疲れさせ、3色ボールペンは、黒インクだけすぐになくなります。

 そういううんざりするような業務を抱えながら、ボスが夏休みの僕の木曜日は、人間ドックの患者さんの診察から始まります。健診部に出向いて、手袋をはめ、麻酔のゼリーを塗りつけた人差し指をお尻の穴に入れ、ジギタールと呼ばれる肛門・直腸指診を行います。正直、朝一番に何人ものお尻に指を入れ続けるのは、そんなに気持ちのいいものではありません。ちなみに、女性の場合は、乳腺・甲状腺も診察しますが、アメリカでは外科医の仕事じゃないそうです、関係ないですが。赤十字病院という特殊性は、当然のように地域協力もさかんで、乳腺・甲状腺に関しては、町の検診に出かけ、何十人も診察する日もあります。

 消化器外科というところは、肝臓などの実質臓器の他、食道から直腸までの管腔臓器全て扱うわけで、その下の方を占める部分の診察や治療には、当然糞便に絡まなくてはなりません。ある泌尿器科医が、「俺はウンコかおしっこかと言われれば、おしっこのほうが綺麗な気がするし、それで泌尿器科医を選んだ」とか冗談を言っていましたが、僕らの仕事は、人が普段は隠しているところを見たり触ったりすることが多いわけで、ドックの業務をしながらも、その特殊性についていろいろと考えるのです。

 忙しく健診部をあとにして、8階建ての病院を、入院患者のいる階、上の方から順番に回診、包帯交換、指示出しをこなし、朝ご飯を待っていてもらっている人の造影検査なんかをするために透視室(X線テレビ室などの表示がされていることもある)にこもってバリウム飲んでもらったりしながら、僕も一緒に被曝したりして、気付けばだいたいお昼を回っています。

 食事のあとの午後に、検査が入っていたり、先の乳腺・甲状腺検診に出かける日だったり、右下腹部が痛い人がやって来るとかいう不吉な電話が入ったりしなければ、先に述べたような業務をするわけです。けれど、手術室にいなければいないで、結局、蜂に刺された人とか、鎌で足を切った人とか、なんだかよく分からないけど病院に駆け込んで来た人とかの対応で、救急外来に呼びつけられたりすることも多いのです。

 ところで、僕は救急外来で、ケガしたところを縫ったりしているとき、どうでもいいような世間話を患者さんと交わしているし、それは痛みとか気持ち悪さを紛らわすのに都合のいいことが多いということがなんとなくわかっています。聴診器が冷たいことを知っているから、お腹の具合とかたずねながら、両のてのひらで聴診器を包み込んでおいて、なるべく不快感を与えないように聴診を始めています。別に格好付けているわけじゃないけれど、それは社会常識の範囲内の出来事で、誰かから直接的に教わったことじゃないし、僕が後輩にわざわざ教えることでもないと思っていたのです。

 でも多くの患者さんは、「いきなり当てられるあの聴診器の冷たさはどうにかならないのか」というようなことを言っていたし、大学のエレベータの前で待っている患者さんより先に乗り込むポリクリ(臨床実習)中の学生の群れがいたりするのでした。別にそれは、「今時の若い者は」という類で評価する類のものでなくて、あくまでその個々人の問題だとは思います。けれど、結局一杯になってドアがしまったエレベータを呆然と見つめながら、思わず横にいた後輩に「あの乗り方はないよな。どうにかなんないのか」ともらしてしまったこともありました。

 昔演劇部にいたときに、地区の大会というものがあって、それぞれいろんな戯曲を演じるわけなのですが、それになんだかしらないけれど優劣をつけて、県の大会にすすめる団体を選ぶ人たちがいたのです。同じ芝居を演るわけでなし、芸術を論評されるのはまだいいにしろ、なんで優劣がつくのかという思いはその当時からあったのですが、なんとなく、脚本を選ぶ段階で勝ち負けがみえているような気もしていたのです。

 それを演じることが高い評価に繋がるような気がしていても、僕らは、道徳の教科書が大嫌いだったのです。演劇という表現方法は、それぞれになんらかの主題を持っていることは明らかだけれど、それがあんまり説教くさかったり、教義じみているのは面白くないと思っていたのです。僕らは芸術であり、娯楽であり、哲学であるものを求めていたけれど、道徳の教科書的なものを演じる気はなかったし、「太郎君は花子さんの気持ちをもっと考えてあげるべきだったのだと思います」なんていう感想はききたくなかったのです。

 僕は今でも、公共広告機構とか、いじめ撲滅運動なんかの下手くそな啓蒙活動をみるたびに、妙な嫌悪感を感じずにはいられません。なんか、そういう、「当たり前」のことをあまりにもストレートに説教されるのは腹立たしいのですが、その「当たり前」のことが自然にこなせない奴にも腹は立ちます。すなわち僕は、道徳の教科書は大嫌いだけれど、道徳観は大事だと思っているのであって、それは社会生活の中で身につけていくべきものだと思うのです。先生が正しいとか間違っているとか言って教えられるものではないと思うし、そういう教え方は、かえって反発されると思うのです。そういう意味で、国民的宗教とかの拠り所がないというのは、日本における道徳の難しいところだとは思います。でも別に、今の時代に「武士道」でもないと思うのです。

 そういうことに熱くなったりしていた大学時代、ある先輩医師は、僕が熱くなっているのを「またザウエルが吼えてるよ」とか言って面白がっていたのを、ふと思い出しました。