「外道の外科」-0447-

 外科医が外科医である理由とか存在意義とかはその名前通り外科的手技にあるわけで、僕らは手術やるために外科医をやっているのだけれど、毎日延々と手術に継ぐ手術だと、さすがに嫌になるのです。今日は大小計4件の手術を終え、病棟で術後管理、ボスは「何かまた来ないうちに早めに解散にしよう」と呟いたのでした。とりあえず、今日は9時過ぎには帰宅できました。

 外科医の外の次は外道の外の字だ、といま勤務する病院のある先輩医師が事ある度に言うのです。なんとなく裏技のような気がするからだと言います。その意味の全ては理解できないのだけれど、なんとなくそのニュアンスは分かる気がするのです。外道だろうが裏技だろうが、本道かも知れない治療だけでは救えない命を、唯一救える手段であることも多いし、その手段を生かすためには時間との勝負があって、「早めに解散」したところで、病院に外道を必要とする患者がやって来れば、僕らはまた集合しなけりゃいけないのでした。

 僕はたかだか2年目の医者だけれど、毎日のように人の体を切り刻んで、胃とか腸とか肝臓とか膵臓とか肺とかとにかく人間の体を構成するあらゆるものをいじくっているわけです。大きな生き物の括りで考えれば、僕らが手術なんて方法までとって、他の種を出し抜いて長生きするのは、まさに外道の技かも知れないとは思います。人間社会でも、地球規模でみたときの受けられる医療の差、生活レベルの差の問題から、「死ぬ義務」という考え方も議論されています。

 別に遺伝子とかそんな難しいレベルで考えなくても、僕らは確実に、僕ら自身に外道の技をふるい続けていると思います。どこまで許されるとかなんとか議論されるのだけれど、人のお腹を切って開けるという行為だって、神の目から見たら越権かも知れません。

 同じ疾患に接しても、内科とか外科とか、専門によって治療に関する考えやアプローチが変わってくることは多いです。外道の外科じゃないけれど、当然僕らは手術療法という大技を繰り出すことを含めて考えることが多いわけです。切って、とって、治すんだという外科的な発想っていうのがそこに漂うのです。

 ある精神科医が、例えば外科的疾患などに比べれば、明らかに治療効果が判定しにくい病気を扱うことについて、「治したいの?」という言葉を発していたのです。なんというか、僕らは別に神様じゃなくて、治してやるとか治せないとか、そういう二極化のことばかりじゃないし、緊急時とか急性期とかのやむを得ない場合を除けば、僕らが全権を握る必要は無いわけです。患者さんのプライベートな部分にどれくらい踏み込むのかという問題はケースバイケースです。患者にしても医者にしても、常に相性の良い人間同士が出会えるというわけではないシステムの上で動いているのです。

 正確な起点は覚えていないのですが、僕はかなりはやいうちに外科一本に志望が固まっていたのですが、精神医学とか心理学とかいう部分には非常に興味がありました。日本では診断学は内科で教え、全ての臨床の基本が内科であるかのようなイメージが強いのですが、相手が人間である以上、そのコミュニケーションの上でも精神科的アプローチはかなり重要なはずです。

 僕の今勤める病院には、精神科の医師は存在しません。また、精神科的素養を持つ医師もおそらくいないように感じます。例えば、神経症のような症状に、消化器症状を複合し、入退院を繰り返すような常連患者というような存在に、僕ら外科医が外科の発想だけで単独で対峙するようなことには疑問を感じるのです。

 純粋に精神病の治療という話になっても、単に内服薬だけで回復する類のものなのかどうかということ。治すか治さないかという次元の問題なのかどうかということ。僕らは体の中の環境に、胃全摘術だとか直腸切断術とか言って、強制的に介入した治療を得意としているのだけれど、介入の仕方を変えたところにも、医療は存在するのです。

 精神科的な独特のプロセスに、ある問題に対して具体的な解決策を提示してしまうと、患者が自身の力で答えを見つけだすステップを妨害し、一時的には問題解決となっても、根本的な解決に至らないという考え方があるそうです。例えば親が子供に教育をすることだとか、人間が成長するための教育として、あたりまえの考え方であるけれど、外科の視点からはあまり見えてこないと思うのです。

 医者を描いたマンガというのが結構な数あって、僕は結構それらが好きなのですが、それが現実とマンガの世界とを区切っている何かの存在がずっと気にかかっていたのです。最近話題の「ブラックジャックによろしく」という名門大学病院の研修医を描いたマンガも、誇張されている部分や、意図的に隠されたような部分もあるけれど、大筋で研修医と大学病院の雰囲気は伝えているように思います。ただ、現実世界との間に線をひくもの、それは結局、外科的発想「治してやるんだ」というような視点からしか描かれていないという、そのことなのかも知れないと思うのです。

 なんというか、それはマンガの描き方だけで解決される問題じゃなく、社会の中での医療に対するイメージだとか、神格化された医師像と、生身の体という実際のギャップだとか、いろんな要素が絡んでいるのだと思います。

 精神科医がずっと専門の勉強を続けていくように、僕はずっと外科の勉強を続けていくだろうし、二兎を追うのは難しいと思います。ただ、あるひとりの人間がいて、その人の幸せを願うのが医療だとしたら、目に見える治療のアプローチが違ったとしても、根本で相容れないということは無いのではないかと思うのです。治さないとか、見守るとか、そういうのも医療なのか、難しいことなのだけれど、一昔前のように、例えば1%でも可能性があるならばと、なにがなんでも難手術に取り組むというのは、必ずしも良しとはされなくなってきていることだけは確かです。