「安らかに眠る」-0451-

 ステルベンを待つ夜の気持ちは微妙なのです。癌という病気は、術中死とか突然死ということはあんまり無くて、だけど確実に死は忍び寄ってきて、最期に至る兆候はなんとなくわかるのです。僕らはそんな頃合い、患者さんの意識があるうちに、親しい人々の面会をすすめ、いよいよの時になれば、お見送りのための人々を集めるのです。

 そして僕は、ステルベン(死)をただ待つ人になるのです。癌の終末期、痛みを取り除いたり、患者さんのやりたいことができるように支援したりすることはできるけれど、病気そのものに対しての治療ができなくなれば、ある一定の期間の後に、確実にそれはやって来るのです。真の意味での緩和医療、かつて終末期医療やターミナルケアなどともよばれたそれを行うために、僕はもちろん、患者さんや家族に、癌そのものを治療しているわけでは無いことを告げながら、幸福を得られるようなケアを提案しています。そして、原疾患が治療されていなければ、いよいよの時に蘇生法を試みるのが意味のないことであるということも、最近は広く理解されつつあります。

 ステルベンを待つというのは決して気分の良いものでは無いし、なんとなく他の時間のかかる仕事を始めにくいものです。昼間はそんなことを言っていられず、日常業務に追われるのですが、特に夜中にそういう場面がやって来れば、ステルベンという出来事が起こることをただ待ち続ける人になります。それを延命という意味では救うことはしないわけで、せめてできることはただ苦痛無きようにするぐらいのこと。文字通り、命の火が燃え尽きるのを、妙に冷静にただ待つという時間。こういう経験を何度もすると、自分の身内の死というものに出くわしたとき、人間なら当然湧き上がってくるであろう感情を、きちんと感じることができるのか不安にもなるのです。

 昨夜もまた、ある命の最期の時間を見守っていたのですが、弱いながらもその命は燃え続け、僕は気付くと医局の硬いソファに変な格好でうずくまって眠っていたのです。結局のところ、今日のお昼近くになって、その命を見送ったのでした。

 それは僕らの責務だとは思うけれど、眠る場所すら満足に与えられない生活が続くこともあるのです。言葉は悪いけれど、重傷者をかかえれば、その人が回復するか亡くなるかしない限り、担当医は病院を離れられません。もちろん回復を目指して治療するのですが、癌死のような場合、もはや回復は目指さず、単に死を待つだけになってしまうので、非常に複雑な気持ちになるのです。一生懸命治療して、重傷者が回復して落ち着き、自らも激務から解放されて、自宅の布団にもぐりこむのは最高の気分ですが、終末期患者を相手にした場合、解放の時はすなわち患者の最期の時で、それをただ待つというだけで、ふとした瞬間に浮かぶ利己的な思いだとかに、罪悪感を感じたりしているのです。

 大学での研修時代は、夜は空いている処置台の上で誰かが眠っていたものだし、エレベータのボタンを押した格好で眠ってしまった人をみかけたり、外来の椅子の上で力つきている人がいたりとか、そんな生活の連続に、研修医は交代でぶっ倒れて点滴を入れられながらも仕事していたり、結構壮絶なことも多かったです。研修医2年目の生活は、去年の生活よりはマシなのだけれど、時には真夜中に手術をしてみたり、机に突っ伏したり、狭いソファで寝てみたりするわけで、仕事が始まった最初の一週間、あわせて10時間の睡眠もとれなかったようなことを思い出すのです。