「ワザ」-0452-

 これは僕の考え方だとかいう以前の、僕が僕であるための本質的なことに触れることなのです。それ故、僕は自分の凄く弱いところをみせたりすることのできる相手に対しても、ある限られた事柄に関しては演技し続けることを余儀なくされているのです。いつかこの部分も含めて、さらけ出したとき、僕は真の意味で解放されるのだとも思うのだけれど、解放することが全てでは無いという気もしたのです。

 さらけ出すことで救われることならば、信頼できる人間にはなんでもさらけ出して、その上に信頼関係を築くわけですが、さらけだせばかえって救われないこともあるかも知れません。それが、「常識」と決め込まれた種々の誤解とかそういうことに起因するのかも知れません。いずれにせよ、僕の心は僕のものであり、無遠慮に僕の心の全てに無理矢理入り込んでこようとする人間は苦手です。「何でも相談してよ」という言葉が、かえって重荷になることもあるのです。

 僕がどの人に何をみせるかは僕が決めることで、それには血縁とかそんなことは全く関係無くて、本質的に別の個体であるのだから、たとえ僕を生み出した親であっても、「お前のことはなんでもわかる」というのは大いなる勘違いなのです。おおまかな僕をつかんでいたとしても、僕は僕の全てを表現していないし、他の生き物たちもそうなのだと思うのです。

 太宰治の「人間失格」で、主人公葉蔵は、自分の道化を、竹一という白痴に似た生徒に見破られ、「ワザ。ワザ。」と低い声で囁かれた、冒頭のこのシーンが多くの読者の心をとらえるというのは、すなわち、僕らはみんなこんな生き方に心当たりがあるということなのではないかと思うのです。

 僕は心の全てを言葉にする課程で翻訳をするし、その思いの一部を意図的に隠すかも知れません。匿名で運営するウェブサイトだって、実生活と関係無いから本音を語っているのかと言えば、やっぱりそこにはザウエルという存在をかっこよく演じようとする思いが働くわけで、なんらかのフィルターのかかった表現になるのです。文章という手段でそれを受け取る側もまた、彼らのフィルターを通して、彼らの中でなんらかの思いとして処理するはずです。僕らは触角やテレパシーのような手段で意思伝達することはできないのです。

 ただ僕は、その自分の思いを100%表現せずに生きることができるということは、またその素晴らしさがあると強く思うのです。演じることは自分を隠すというマイナスの意味ではなく、自分を高めるための手段になりうると思います。ただ単に、何か負の事柄を隠そうとするために、本当はその思いを共有してもらいたいのに、別の何かを演じて封じ込めるというようなときには、過大なストレスにもなるでしょうが、僕がさらけ出さない事柄の全てが、そういうことではないのです。

 僕は殻にこもっているつもりは無いけれど、誰彼かまわずに僕の全てをさらけ出すつもりは無いのです。それは正直に生きるということとは別問題だと思います。演じることに一生懸命になりすぎて、装飾にこり始めたようなときは、きっと背後からの「ワザ」という声にドキっとするのでしょうが、胸を張って演じることのできることもあるのだと思うのです。

 今日は病院で当直しています。良き当直医を演じることは、自分を高める手段たりうるのか、それともただの偽善に終わるのか、よく分からないけれど、僕はとにかく一生懸命生きているのです。