「酒とベースとアガリクス」-0453-

 土曜日の夜、あるバーで、久々にジャズライブをしたのです。ライブとは言っても、スタンスは呑み屋でジャズ、呑みながらジャズ。雰囲気的には公開練習のようなものかも知れません。

 実は、器材を運び込み、いざ演奏をという段になって、病院の当直医からコールが入ったのです。親しい友人からの電話とか、愛しい恋人からのメールとか、おおむねは楽しいはずの電話のコール音は、僕にとって恐怖の対象以外の何物でもありません。このときも電話に表示されるコール元の電話番号をみて、一気に胃が痛くなったのです。結果、ライブを中断し、店からの往復および診察、治療に3時間を要したのでした。

 こういうときは、本当に因果な商売だと思うのです。今の職場では、当直の当番以外の時に、明確にオンコールドクターを決めてくれないので、下っ端から順に呼ばれていくのです。かといって、一年中、病院のそばに張り付いているわけにもいきません。しかも急患っていうのは、ちょっと病院を離れたようなときに限ってやって来るんですよ。

 まあ、なんとか緊急手術とかいう事態は避けられたので、3時間中断の後、ライブは続行。診療の求めに応じないなんてことは僕の胃をもっと痛くするに違いないので、もちろん駆けつけるのですが、ちょっと買い物に出かけたような時にも、呼び戻される恐怖に気を張っていなくてはいけないのです。

 僕がお仕事している間、バンドのメンバーたちはだいぶ呑んだらしく、ピアニスト一人は再起不能になっていました。もう二度と電話が鳴らないことを祈りつつ、僕も酒をあおり、ベースを手にとったのです。ふと店をみると、別の場所で一緒に呑んだことのある客とか、大学の後輩の研修医とか、知ってる顔があったり、あるいは知らない顔だけれど、酔いつぶれたピアニストのかわりに、ピアニカを持って参加してくれる人がいたり、僕の思い描いていたようなイメージで音楽と酒が楽しめたのでした。

 研修医という身の上で、医学に没頭しなければならぬという人もいるのかも知れないけれど、僕はこういう時間がとても大切だと思うのです。人間を診るその人が、人間らしい生活をしていなくてはいけないと思うのです。医学というスペシャリティーは、もちろん必要な物だけれど、もっといろんなことに触れて、人間として深くなりたいと思います。

 僕が医学しか知らなければ、健康食品だとか民間療法とかにのめり込んで、「これは癌に効くのか」とか、「この薬と一緒にのんでいいのか」とか言う問いかけをしてくる患者さんに、小馬鹿にしたような対応しかとれないかも知れないと思うのです。大学の時のある先生は、「そういうので治したかったら、病院じゃなくて、本屋に行って下さい。本屋に行けば、癌も治るし目もよくなるし、身長も伸びますよ」なんて言っていたものです。僕ら医者の認識なんてそんなもので、怪しげな治療をバカにしているのだけれど、患者さんも、そんなことは薄々感づいているのではないかと思うのです。科学しか目に映らないと言うことは、お守りを握りしめる事を否定すると言うことです。アガリクスとかプロポリスとかクロレラとかいうのもなんらかのお守りには違いないと思うのです。

 患者さんに民間療法の相談を受けたようなとき、僕はゆっくりと「僕はアガリクスというものがどんなものか知らないけれど」と話しはじめるのです。決して全否定はしないようにするのです。統計的にある割合の症例に効果が出たと認められたものが、抗癌剤として国に認められているわけで、アガリクスとか何とかそういうものたちは、そういう統計が無いか、あるいは効果の出る割合が低いのか、なんらかの理由で薬として認められていないわけです。ただ、体験談が嘘で無いとすれば、そういう効果が現れる人もいるのかも知れないし、もしくはそれと組み合わされたなんらかの要因で、癌が小さくなったのかも知れません。そんなことをゆっくりと話すのです。

 抗癌剤だって、「制癌剤」を名乗れない程度の効果しか無いわけで、100%の人に効く訳では無いし、効かなかった人にとってみれば、そんなの薬でもなんでも無いし、効いた人にとってみれば、国が認めていなくても、それは特効薬なんです。別にアガリクスを擁護するとかそういう話では無いのです。勝手な思いこみが先行した、どう考えても病状を悪化させるような民間療法が多く存在することもわかっています。だけど、最近になって、「それが本当に効くなら、医者が使ってますよ」という台詞があまりにも冷たいように思えてきたのです。短絡的に、そんな怪しげなものにお金を使うのは馬鹿げているとかいうのは、何かにすがらなくても生きていける健康な者の勝手な思いなのかも知れません。

 僕らは、新聞の広告なんかを半ばバカにしたように眺めるだけだけれど、中にはそれを真剣に見つめる人がいるのです。それに高いお金がかかったとしても、場合によっては、そうしてお金をかけたということで、なんらかの救いを得ることができるのかも知れません。その視点の違いに気付かないと、いつになっても身のある会話ができないと思うのです。

 もちろん、本当は、そんな情報が乱立することのないような、素晴らしい治療が確立するのが一番のことだと思うし、これから医者として生きていく僕らは、そんな仕事の一端を担えるに違いないと思うのです。