2003/7/12(土)「死の義務?」

 理想の最期、なんてことを追求出来る人は、実はこの地球上においては圧倒的少数派なのです。

 僕がずっと腑に落ちなかったのは、例えば、死んでしまったクジラに対して、とてつもない金を当てて埋葬資金に充てたり、傷ついたイルカを保護するのに、専用のプールまでつくってみたとか、そういう「美談」。冷たいようかも知れないけれど、僕は順番が違うと思ってしまうのです。その何百万とか何千万とかいう金を、飢餓に苦しむアフリカの子供たちに与えたら、いったい何人の命が助かるのだろうか、と思います。そんな遠い国の話をしなくても、例えば、この日本国内にも、食うに困っている人は多くいるはずで、まずは、そこに金を使うべきではないかと思うのです。何度も書いているように、人間のエゴを否定しません。例えば、目の前で傷ついたイルカが苦しんでいれば、僕はそれを救いたいと思うかも知れないし、それを救うのは別に悪いことではないとは思うのです。けれど、そういったわかりやすい「美談」に踊らされて、他の多くの苦しみに目を背けるのはいただけないと思うのです。

 自分や自分の家族に理想の医療や理想の最期を望む、自分の親しい人にそれを望む、自分の地域の人にそれを望む、自分の国の人にそれを望む…きっと、アンバランスな部分は多いと思うのですが、例えば、終末期の患者の人工呼吸器を一日早くはずせば、その医療費で、数百人のアフリカの子供にワクチン接種ができるわけです。数百人を犠牲にしても、僕は自分のわがままな最期を追求するような気がするし、そのエゴは誰しも持っていることだと思うのですが、それがエゴであることに気付かないのはタチが悪いとも思います。

 人も、最初の例では動物たちも、その生まれた環境によって、最期、というよりも、その生存に対して当てられる予算にかなりの不均衡があります。先進医療を受けることのできる人々は、その全てとはいわないまでも、その一部を放棄するべきだ、という主張があります。助かる見込みの無いものに対し、いたずらに延命するような行為は、地球上の資源やお金や労力を、その分無駄にしているという考え方です。それは、その個人や、そのコミュニティだけみていれば、なんとも冷淡な意見にきこえますが、その主張は、その余剰の医療の部分を、より恵まれない医療圏の人々に当てるべきだというのです。日本国内で、漫然と老人に施行される砂糖水の点滴をやめれば、おそらく、アフリカ全土にワクチンを届られるでしょう。そこまで飛躍しなくても、まずは、国内の健康保険が安くなるかも知れません。

 個人の自由とか、権利とかを無制限に追求していけば、そのわがままに対応するため、我が国で言えば、健康保険に無理がくるし、世界的にみれば、助かるはずの命が失われるわけです。ただ、僕らは、自分や自分の家族の犠牲のもとに、より多くの命を助けようと思う人は、そういないとおもいます。キリスト教では、百匹の羊のうち、その一匹が迷い出たとすれば、99匹を残しておいて、その一匹を探しに行くだろう。という言葉があります。神の愛を説いたものですが、これもまた真理、あるいは正常な心理だと思います。

 僕の場合は、人間に対して、その希望のもと行われる延命処置までは、気持ちが分からないでもないのですが、たまたま人の目につくところにあらわれた動物に対して、湯水のように金や人を使うのは理解し難いのです。しかし、自分が可愛がっている犬と道端で倒れている見知らぬ人、どちらを先に助けるかと言えば悩むところなんだと思うのです。仮に僕らの愛が無限だとしても、その愛を実行に移すとき、僕らは万能ではなく、全てを救うことはできないのです。

 さて、世界的に言われている、「死の義務」という考え方の大きな流れは、1984年、米国のコロラド州知事リチャード・ラムが「人生の黄昏時ともなれば、年少者に居場所を明け渡すのが道徳的な義務である。秋には木の葉が落ちるように、高齢者には死ぬ義務がある」とし提唱したものに始まります。医療費削減という早急な課題に対しての、ひとつの答えとしての提唱でしたが、当時、この論は冷たくあしらわれたのでした。その後、1997年に、同国の生命倫理学者ジョン・ハードウィッグが、また少し違う視点から提唱すると、徐々に好意的に受け入れられはじめました。ハードウィッグは、すべての人間には「死ぬ義務」があるとし、痴呆や回復し得ない病気になった場合、人間は延命治療を拒否し、自ら死を選択すべきであるということを主張します。自立ができず、家族に負担をかけ、その生活を変えてしまうことが現実となった時、「死ぬ義務」がつくり出されるのだとしています。(John Hardwig, "Is There a Duty to Die?"Hasting Center Report 27, No.2(1997):34-42)

「自分自身のこともできなくなった時、我々の生命維持のための費用という問題は、しばしばわれわれの前に立ちはだかる。我々が長生きしたとしたらその結果、痴呆と衰弱が待ち受けている。医療が発達すればするほど、死ぬ義務の必要性をつくり出すことになる。死ぬ義務の議論は、その大半が延命治療の暗部のみを指摘するのみで、私たちは加担しているものとみなされている。そうした終末的な病気にかかっていなかったとしても、自分自身の生を終わらせる責任性は広く存在している。最終的にはもし個人が生きることを選択するのならば、死ぬ義務は存在しうる。その通りだとすれば、死ぬ義務を創出しうるような状況は、私たちのQOL(Quality of Life=生活の質)を傷つけるものである」

 ここでハードウィッグが述べる、費用という問題は、単に金銭的なものだけではなく、「もし家族の誰かが仕事を辞めなければならなかったら、その人は仕事上のキャリアを失うことになる。それゆえ介護を行う者の人生を奪うことになるのだ。若い人にとっては、もしかしたらそうした入院治療費によって生じた借金を返すために大学進学の夢をあきらめなければならないかもしれない。人生の全体をこのように形作ってしまうかもしれないのだ」という、愛する人々へのすべての負担を言っています。

 さらには、この「死ぬ義務」の論争は、安楽死尊厳死を含めた「死の自己決定」の論争から、「脳死臓器移植」の問題をも含めた論争となっているのです。

 姥捨山、の発想は、それが自己決定ではなかったにせよ、「死ぬ義務」の最も分かりやすい実践だったのだろうと思います。人工呼吸器の登場は、かつて誰にも分かりやすかった「死」を複雑にし、「臓器移植」の発想が、その倫理と死の定義をよりわかりにくいものにしてしまいました。

 ただ、僕は結局、この問題に普遍的な答えなんてないと思うのです。アフリカの数千人の子供よりも先に目の前のイルカを救うのも、親の最期に対し、「できるだけのことはしてください」といって人工呼吸器を繋ぐのも、飢える人間をしりながら、美味しいものを食べにいくのをやめないのも、それを「間違っている」といえるような絶対的な真理なんてないと思います。誰かが、この答えを教えてくれるというのもあり得ません。基本的には、個人個人の問題です。ただ、多くの人間は、集団生活を行うわけですが、公共の福祉に反しない限り、それは許容されるものなのだと思います。

(「一殺多生」が仏教用語で云々といったくだりは僕の勘違いであり、誤解を招く表現であったため、いまさらながら訂正しておきます。)