訴訟を起こされるのは真実を語らなかったから?

 僕らはもちろん、ミスの隠蔽が露見した時のダメージはよく知っていますし、元来、悪いことをしようと思って医療をやっているわけではありません。なので、少なくとも僕の知る限り、不幸な転帰をとった症例の説明で、嘘をつくということは、報道で煽られているように多いとは思いません。しかし、患者さん側が期待するような「ミス」を医者が話さず、「合併症」の説明をすると、「本当のことを言ってくれなかった。病院はミスのことを言うはずがないよな」などと言われてしまうことが多いのです。こちらとしては、本当のことを言っているのに、嘘だととらえられてしまうと、それ以上何も言えないので、もうどうしようもないのです。ですから、「医者が真摯に説明をしなかったことが訴訟に繋がった」と頻繁に報道されていますが、医者の立場からは、必ずしもそういうことではないと思っています。誰のせいでもないこと、已むを得ないということの存在を、みんな忘れてしまったのでしょうか。
 そもそも、「合併症」ということについて、医者と患者さんの間に、相当の認識のずれがあります。場合によっては、看護師なども、患者さんへの同情する気持ちを示すあまり、「先生の手技が未熟だったのでは」とか、「私はなんとかして欲しいと何度も先生に訴えたのに、先生は何もしてくれなかった」というような態度をとることがあります。こういった声が、患者さんやその家族、あるいはマスコミの耳に入ったとき、医学的な検討がなされないまま、そこにミスがあったとか、医者の冷たさというイメージが煽られることがあります。
 医者だって、苦しむ患者さんの顔をみるのはとても辛いのです。ただ、だからといって、感情だけでは動けません。医学的にその苦痛を取り除けないということが、一般に考えられている以上によくあることなのです。
 こういう場面で、患者さんと医者の橋渡しとして、看護師という存在は非常に大きなものです。「とにかくなんとかしてくれ」という立場の患者さんと、「緩和はできるが、完全に治療するのは難しい」という判断を「責任を持って」下す医者がいるとします。もちろん、医者が「こういう薬を使うことによって、ある程度この苦痛は取り除けますが、限られた量しかつかえません」と説明をすれば、患者さんは理屈としては納得してくれるかも知れません。しかし、やはりその苦痛が取り除かれなければ「何もしてくれなかった」という思いが強くなるのではないでしょうか。もちろん、癌性疼痛の管理に関して、麻薬の使用に誤解があるなど、そもそもの医者の判断が間違っている場合はその限りではありませんし、看護師はそれを批判してよい、むしろ、批判すべき立場だと思います。
 感情論は除外して、治療が妥当であるとして、ここで、看護師には医者にはできないレベルでのケアが可能だと考えています。すなわち、医療の素人としての患者さんに対し、「医者の判断が医学的に妥当であり、しかし、それだけで苦痛が緩和されないのも事実ですが、私たちは、その苦痛がなるべく緩和されるように、よくお話をききますし、お手伝いをします」という立場をとることによって、患者さんと共に苦痛に立ち向かうという姿勢をとることが、この場合最大のケアだと思うのです。医者は、感情だけで患者側に入り込みすぎてはならないと思います。もちろん、患者さんの気持ちを無視するということではないのですが、「できるものはできる、できないものはできない」という、医学的に妥当であり、良心に基づいた、責任を持った判断をする立場に居続けなければなりません。
 そういう意味で、医学的に冷静な判断ができない時点で、医者は主治医としての任務を全うするのが難しくなると考えます。例えば、自分の専門領域であったとしても、肉親の直接の主治医は他人に頼むというような理由になりえます。
 こういった場面で、看護師が患者さんへの感情移入が強くなることは当然です。主治医以上に患者さんに接する機会も多いでしょうし、その訴えを頻回にきくわけですから、「何とかしてあげたい」という気持ちが湧くのは当然のことです。ただ、だからといって、自分の専門性を無視して、完全に患者さんの家族同様の立場にたつことは望ましくありません。もちろん。主治医の適切な治療によって、その状況が打破できる可能性が高いと
思えば「主治医にもよく相談してみましょう」と説明し、主治医をコールするのも良いと思いますが、そのコールに対して、主治医が「経過をみる以外は無いのではないか」という判断を下したとして、それは決して、「先生は患者さんの気持ちが全然わかっていない。私はこんなに患者さんのことを考えているのに、何もしてくれない」ということではないということを理解すべきです。確かに、ろくに患者さんを診ないで、看護師の話にろくに耳を傾けないひどい医者もいるのだと思うし、その点で、医者への不信があるのは否めません。ただ、前述のように、多くの医者は、自分の受け持ちの患者さんが苦しんでいるのは辛いと考えているし、どうにかなるものならどうにかしたいのです。しかし、冷静に医学的判断をした結果、どうにもならないことがある場合もあるのです。「安楽死」という、苦痛をとるための究極の選択も、こういう苦渋の末のことなのではないでしょうか。誰も好きこのんで人を殺したいとは思いません。それによって、自分に不利益こそあるものの、何のメリットもないのに、患者さんの命を奪うことで苦痛を取り除こうと考えるに至る理由はなんであるのか考えれば、そういうことになってきます。
 もう、人の手の届かない、自然の摂理という段階において、それでもなお、患者さんは「なんとかして欲しい」と思い、場合によっては「何もしてくれない医者を恨む」かも知れません。医者にしてみれば、本当は恨まれるいわれのないことでも、多くの医者はそれを受け止め、自分の胸の奥にしまい込み、あくまで冷静に対することを求められ続けます。
 話が多少飛躍しますが、これを、人が最も受け入れがたい「死」というものに当てはめて考えてみます。キューブラー・ロス博士によれば、避けがたい死を感じた時、人はまず、第一段階として「否認と孤立」という状態を迎えます。自分がそんな病気にかかるわけがない、死ぬわけがないという気持ちです。そして、それが事実であるということを感じる段階で、その受け入れがたいものに対し、なぜ私がと「怒り」、もし自分の死が避けられるのなら、社会貢献がしたいとか、今までの罪を懺悔するとか、神のような人知を超えたものに対し「取り引き」を行います。それが無駄だと悟った段階で、気分が落ち込み「抑鬱」となり、そうした葛藤をのりこえた後に、怒りも抑欝も超えた、悟りの境地とも言うべき、穏やかな「受容」の段階となります。うまく段階を踏めた人にとっては、その死も安らかです。
 苦痛が取り除かれない場合、受容の段階に至るのは難しいかも知れません。そのため、緩和医療という分野も発展してきています。延命を第一に考えた旧来の医療では、場合によっては命を縮めることになるというその考えには至りません。その流れでは、先述の「あくまで冷静に」の範囲の中ではあるもの、少々患者さんへ立ち入った姿勢をとる必要も出てきます。
 さて、緩和医療の考えも含めて、医者としての良心に基づいた、医学的に妥当な判断自体が間違っているという場合を除いて、看護師が完全に患者さんの側にまわるのは適切ではありません。患者さんやその家族にしてみれば、医療の専門家である看護師が、同じ視点であることをありがたいと感じるでしょう。その点は否定しません。ただ、そこに来て、看護師が自分の専門性を忘れて、完全に感情論だけで家族の視点になった時、もう完全に医者だけが悪者になり、「医者対患者・看護師」という構図ができます。素人である患者さんに対しては、何度説明しても医学的な正しさを理解してもらえないのは已むを得ないと考えていますが、看護師がそれを受け入れないのは、医者としては許容しがたい部分があります。患者さんが頻回に何かを訴えたとき、医者がその全てにおいて説明ができないことの補完ということも、専門職としての看護師を尊重しているからこそ、僕らが求めていることなのです。橋渡しを期待しているものが、むしろ対立を深めてしまうことになるというのは、誰も幸せにしないと思っています。
 患者さんが何か言うたびに、手術中だろうが外来中だろうが夜中だろうが、とにかく何でもコールしてくる看護師は、自分では「患者さんの訴えをよくきいて、すぐに主治医に連絡する、患者さん思いの存在」と思いこんでいるような所があり、僕らが、理論的な話をしても、感情論でしか返してくれないことがあります。もちろん、高度の看護力を持った信頼できる看護師もたくさん存在し、正直、夜中にコールしてくる看護師の名前によって、そのコールの重大性を判断していることもあります。信頼のおける看護師が夜勤の日に、夜中かかってくるコールは、ほぼ間違いなく、患者さんの急変や、重大事項であると思って構えますし、その逆も然りです。
 医者ばかり正当化して、看護師を貶めていると捉えられてしまったら、僕の本意とするところではありません。ただ、看護師が何でも、即座に主治医に連絡したがるという背景には、医療に限らず、なんでも過剰に「責任」を叫び、誰かのせいにするという社会の風潮があると思います。特に、医療行為において、医者にしかできないことがたくさんある以上、仕方がない部分があります。看護師の判断にとどめたものが、悪い結果を招いたとき、結果論で責められてしまう昨今なのです。
 子供が学校で転んで擦りむけば、親は学校のせいにして、学校は病院につれて行き、精査を求めて、何かあれば病院や医者のせいにしようとするのです。本当は、誰のせいでもないこともたくさんあると思いますし、結果論で責任を叫ぶのは簡単ですが、その時点では判断が難しいことが多いというのは医療に限らないことです。
 誰かのせいにするというのは、死を受容する五段階のうち、「怒り」の段階から先に進めていないことになります。自分の死に限らず、家族の死などにも当てはまってくると思います。医者は、多くの死に立ち会い、その都度、正常な感情としての怒りをぶつけられたとしても、それにじっと耐えています。そして、その先の段階に進んでくれることを期待して、安らかに見送りたいと考えます。怒りを受け入れるのは、決して自分にやましいことがあるからではありません。しかし、こうして怒りを受け入れることが「ミスをみとめた」というような誤解を受けて、訴訟や刑事罰が入り込んでくるようになってしまえば、仮にその判決がどちらに転んでも、とうてい「受容」の段階には進めないのではないかと危惧しているのです。