「16件の手術と引っ越しとICUについて」-0495-

 医者になって三度目の春です。怒濤のような一週間でした。恥ずかしながら、イラク情勢に疎いほうの人間に含まれてしまったと思います。先週は、緊急手術に次ぐ緊急手術で、結局土曜日まで15件の手術を、外科常勤4人でこなしていたのです。木曜日には、僕のために病棟の送別会を開いてくれたのですが、金曜日には、病棟の看護師さんたちと、お別れの焼き肉を食べに行くなんていう話だったのに、直腸癌イレウスの急患なんていう存在は、そんな楽しみを簡単に壊してしまい、結局は、朝の3時頃までかかる緊急手術になったのです。金曜日5件目の手術は、その週14件目の手術。

 3/31の月曜日に予定手術が入っていなかったから、「お世話になりました」なんて、オペ室の看護師さんたちに挨拶したその日のうちに緊急手術、翌日、睡眠不足で疲れ切った外科医たちに、またもや緊急手術のプレゼント。その日、病院から30分くらいの温泉地で、症例報告をすることになっていた僕は、手術が終わったあと、急いで会場入りし、へとへとになりながらもなんとか発表を終え、まったく荷造りをしていない状態での、日曜日の引っ越しを心配しながら、その後の飲み会にもつきあわされ、翌朝、朝風呂を浴びたあと、急いでアパートに戻り、慌ただしく段ボールに適当に物を詰め込んでいるところへ、手伝いの方々がやってきてくれて、怒濤のように、積み込みをするのでした。

 トラックには詰めなかったので、僕はバイクにまたがって、一時間山を下り、大学時代を過ごした町へやってきたのです。この時点で、僕は完全に日付の感覚を失っていたし、時間の感覚も怪しいのでした。夕方までになんとか引っ越しのめどをつけ、結局この一週間、全く手をつけるこのできなかった、病院でのサマリー書きやら引継ぎやらの仕事が気になりながらも、音楽関係の後輩たちに誘われた花見に混ざり、夜は同級生の結婚式の飲み会に混ざり、新居で一泊して、朝早く、一日の勤務が残った、日赤病院へ一時間車を走らせるのでした。

 辞職の辞令を受け取り、回診し、検査し、可及的に患者さんやら病院スタッフに別れの挨拶をしつつ、午後には書類書きをしようと思っていたのに、最後の最後までやってくる緊急手術。僕以外の外科医たちもわりとくたくたになっていて、病棟や外来に、緊急手術になりそうな不穏な動きがないことを確認しあっていたのに、内科に隠れていた患者さんは、夕方からの緊急手術が決定。

 数十冊積み上げられた、僕がサマリーを書かなくてはいけないカルテにうんざりしながら、消灯までに、手術患者さんの対応をしたり、挨拶しそこなった患者さんのところへ顔を出したりしつつ、結局書類書きを再開したのは夜中でした。意地と気力だけで、信じられないスピードでサマリーを書き続け、なんとか午前一時過ぎには終了したのは、自分でも少しびっくりでした。

 重い段ボールをふたつほどと、紙袋ひとつを僕の車に積み込むと、日赤病院においての僕の居場所は、公的にも私的にも無くなって、今まで僕が住んでいたアパートには、既に明日から勤務する僕の後輩が引っ越しを完了しているのでした。そのアパートの灯をみながら、また一時間かけて新居に戻り、そこに落ち着く間もなく、4/1付けで、僕の大学ICU(集中治療室)勤務が始まるのです。まったく環境の違う職場にとまどい、何をしていいのか正直分からないのに、なぜか初日から当直で、目一杯勤務したのち、初めての病院での外勤は、これまた日勤、当直業務なのでした。日赤病院ほどは忙しくない、この当直業務の間に、こんなの書いてるわけですが、明日も朝早くここを出て、ICUで夜まで勤務し、その後ようやく帰宅できることになります。

 なんだか、先週からの怒濤のような日々が、僕のリズムをすっかり狂わせて、最初にも書いたように、イラク情勢などの情報が、ここ一週間分くらい、驚くほどすっぽりと抜けていて、でも僕は、確実に目の前の一人の人間に向き合っていると思うとか締めると、格好良いのだけれど、そうでも思わないとやってられないんですよ。