ブラックジャックによろしく

ブラックジャックによろしく (8) (モーニングKC)

ブラックジャックによろしく (8) (モーニングKC)

少し前に、病棟の看護師と呑んだときに、「ブラックジャックによろしく」のがん医療編で感動した、という話をきかされた。まあ、別に何に感動しようと構わないのだけれど、ああいったシーンをマンガの中だけでしかとらえていないことに驚いたのでした。僕たちが働く外科病棟では、まさに毎日癌治療しているのに。
さすがに一緒に呑んでいた僕の上級医たちも渋い顔をして、「一般人がそういうこというんならわかるけど…」と。手術後の病理結果や予後の説明。化学療法や放射線療法の説明。終末期医療についての希望。そういったやりとりが日常的に行われ、それによって誰かの人生の最期のときがある程度決定され、その一部に僕らはたちあっているのです。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20040726
7/26に書いた終末期の麻薬を用いた疼痛管理に関する煮え切らないやりとり。こういうものの根底にそういう無理解があるのかな、と思います。
追記。
とりあえず、一連のマンガに描かれる外科の風景が、実際の現場とはいろいろ違う、歪んだ部分があることはおいておいたとして、癌を家族で共有するという場面で「感動」してももちろんいいと思います。ただ、無批判にその場面に感動するのは、一般人の話であって、僕らは、そういった問題をいろいろ抱えた癌患者が、リアルな存在として何人も入院しているということを当然知っていなければならないのです。
そういういろんな背景をふまえて、抗癌剤の説明をしたり、手術の適応を決めたり、生活の方法について相談したりしている。同じ病棟の看護師であれば、そういったリアルな部分は知っていて欲しいと思うのだけれど、そのマンガの場面のような状況を、自分の病棟にいる患者さんには当てはめられないというのが寂しいのです。
先の会話の中で、「病棟にたくさんあるでしょ、そういう場面」という言葉にキョトンとしているのです。当然、僕の上級医たちも渋い顔をするのです。
看護師という医療の立場から患者さんと向かい合うべき状況が数多いのに、ほとんど「患者さんの家族」のような視点でものをみてしまうことが多いようです。患者さんの発する「痛い」や「気持ち悪い」がどういったものに由来するのか考えたり、「先生にきいてみますね」という一言だけに逃げるのではなく、場合によっては不安をとるような声をかけてあげたりすることができたら嬉しいです。
その「痛い」が疼痛コントロールによってどうにかなる「痛み」なのか。その「気持ち悪い」がどんな気持ちの表現なのか。言葉で解消できるものなのか。有事指示の薬を使えばいいことなのか。コントロールがつくものなのか。ある程度は我慢の必要があるような性質のものなのか。
もちろん、患者さんの家族のようにふるまうというのは、患者さんの視点に立つという意味では正しいのですが。