「述懐」-0477-

 考えすぎてしまったり、プライバシーの問題が面倒くさかったりして、日記を気楽に書けない日も多くなってきました。気付けばこのサイトも、開設から4年半もたっていて、インターネット人口が増えたり、なによりこのサイトの中身がほとんどテキストで、不思議なキーワードを検索してこのサイトに引っかかる人も増えてきて、当然、実生活の知り合いがたどり着く機会も増えてきたのです。

 僕が1年目の研修医をしていたとき、ポリクリ(臨床実習)に来ていた学生が、「僕、あるメルマガを読んでいて、それはどうやらうちの大学の人が書いてるみたいなんですけど」なんて僕に話しかけて気ながら、僕が書いているということには気付いていなかったということがありましたが、その彼も時期に卒業なのでしょう。もしここを見ていたらメールでも下さい。国家試験頑張って下さい。

 自宅から初めてインターネットに繋いだのは、サイト開設よりはさらに1年以上遡ったあたりで、当時ネットスケープの前身、Mosaicというブラウザを使っていたのでした。個人サイトとか、今の日記才人、当時の日記猿人に出会ったりして、長いこといろんな人のサイト見たり、メールやりとりしたりしていたのですが、時に、ネット上からふっと姿をくらます人がいて、それはネット上では死に等しくて、そこで関係が終わってしまうことも多いのです。ネットでの人間関係を否定する人は、数年前に比べればだいぶ減ってきたように思います。ネットという手段を使ってはいるけれど、その相手が人間であることには変わりなく、かつて電話という方法が好まれなかったように、コミュニケーション手段としては、スタンダードになっているものであると思うのです。

 そして、背後のその人間という姿が見えてしまうために、その別れは、テレビドラマの最終回よりはかなしいものになるのです。一期一会とかいう言葉も、実はあんまり好きじゃないのです。全面に押し出すと鬱陶しいのだろうし、時にそれを隠して人に接して、かえって冷たい印象を与えたりしながら、僕は割と深い人間関係を好むらしいのです。再三サイトにも書いたように、僕は物が捨てられない人間で、人間関係なんかも容易には切れないようです。

 実生活の上でも、ネット上と似たような関係を築いている場面があります。ベース抱えてセッションに参加したり、よくいく店のカウンターでいつもみかける顔、お互いになんとなく知ってはいる相手。店、あるいはサイト。繋がりはその場所だけ。本名とかあんまり良く知らないけれど、そこで語った内容で、お互いのことをなんとなくわかっているというだけ。そういう関係にも永久のものを求めたり、何が何でも繋がっていなくてはならないとしたらきりがないのは分かっているんだけれど、なかなか割り切れないのです。社交辞令の「今度呑みに行きましょう」も苦手です。僕はたぶん、いつも本気で誘ってます。

 さらに遡った話をすると、僕が不特定多数に向けて文章を書き始めたのは中学生くらいの時です。当時はペーパーベースでした。その本が最初に発行されてから数えると、12年くらいたつようです。その本に顔を出していた幾人かは、インターネットという手段でいまだに繋がりがあったりもします。一月か二月に一回くらいつくられる本と、郵送でやりとりされる情報の時代から比べると、お互いが繋がっていたいとさえ思えれば、容易に関係を保てるようになってきたのかも知れません。インターネット以前、僕はパソコン通信という方法で、不特定多数へコンタクトをとっていました。2400bpsというモデムを確か2万円くらいで購入して、課金のかかる大手サイトを避けて、地元の草の根ネットへ入会したのですが、インターネットのように、電話回線を通して共通の回線の上に接続する、という環境ではなかったので、そこで実生活の知り合いに遭遇したりとか、本を一緒につくった友人とコンタクトをとったりということには役立てませんでした。

 ちなみに、全く関係の無い方向へ遡ると、僕の最初のコンピュータとの出会いは、カシオのポケコンPB-110で、当時パソコンがほしくてたまらなかった僕と、ほとんど興味のなかった弟へのクリスマスプレゼントとして、小学2年生くらいのときに与えられたのでした。親は全然使えなくて、というより使う気もなくて、僕はアルファベットがAからZまで書くことが出来ないうちに、10 PRINT A$とか、BASICのプログラムを組んでいたのでした。説明書に載っていたゲームを打ち込んだりしてました。弟は全く興味を示さず、入力後のゲームで遊ぶくらいでした。その後、4年生くらいのときに、それまで一銭も使わずにずっとためていたお年玉を放出して、MSX2を購入したのでした。最近、公式エミュレータも発表されて、僕が捨てられずにためておいたBASICプログラムたちが、WINDOWS上で蘇るのです。昔のフロッピーディスクに納めたデジタルデータとか音楽テープなんかは、保存状態が微妙で、なんとかしたいとは思っているのですが、そこまで考えはじめると病的な気もしてきます。

 なんだろう、子供の宝物ってありますよね。親からみたらただのガラクタ。それを大切にしまっておくのに、捨てられてしまう哀しさ。僕はいまだにその気持ちが痛いほど分かるんです。昔に比べれば、僕はだいぶ物が捨てられるようになったと思うし、多少のなくし物や、壊れてしまうものに動じなくなったとは思うのです。何かのトラウマかも知れません。

 僕の捨てられなさは、今の僕を構成する全てに及ぶのです。嫌な思い出もたくさんあって、やり直したい部分もたくさんあるのだけれど、そこをやり直してしまったら、今の僕ではなくなってしまうという事。僕は僕の歩いてきた道を大切に思っていて、今という時間軸上の一点を打つために引かれてきた線が、唯一のものだということを知っています。

 たまになんだかいろんな過去を振り返ってみたりするのですが、全ては今の僕に繋がっているのであって、そこへ繋がる物も人も、捨てなくていいのであれば、僕はきっと捨てないで生きていくのだと思います。