「出版」-0489-

 昔から、物を書くのは好きだったんです。はしかにかかって幼稚園を休んだとき、鉛筆で書いた紙芝居は、全くの僕のオリジナルだったのだけれど、久しぶりにいった幼稚園でそれを先生がみんなに披露してくれたとき、級友たちは、そのお話を、「ザウエルくんの家にはたくさん本があるから、その中からつくったんだよ」と決めつけたのでした。僕はもの凄く悔しくて、一対多数で圧倒的不利な場面にたたされてなお、自分の正当性を信じていたから、「そんなに言うんだったら、うちへ来て全部の本を読んでみて、同じ話があるかどうかみてよ」と主張したのでした。その紙芝居はさすがにもうどこにも無いのだけれど、たかだか5歳くらいのときにつくったその話は今でもよく覚えているのです。自分でも驚くのですが、僕は3歳くらいの頃から、自分がしてきたこと、それに対して周りがどういう反応をしたのかも、もの凄くよく覚えています。

 紙芝居のタイトルは「てがみときって」とかいうもので、角のたばこ屋か何かで、それぞれ自分の優位性を巡ってけんかしていた「てがみ」(これは当時の僕としてはハガキを意図していたのです。それも、官製ハガキじゃなくて、切手が必要なもの)と「きって」が、同時に買われて、二人でようやくひとつの目的を果たすに至るというような話だったと思います。それと前後してつくっていた、「おはなししりーず」をうたった、ホッチキスで製本したミニ絵本は、驚くべきことに、実家に現存していて、毛糸のカギで別の世界の扉を開く話とか、大金持ちが一夜にして貧乏になる話とか、なぜ雪が降るのかという話とか、いろんな作品が残っています。なお、雪を降らせた魔法使いが、冷蔵庫を降らせたりとか、どこをモチーフにしたのかよくわからないストーリー展開があるのですが、みな一様に、なんだか道徳教育らしきものを含みつつ、それなりにまとまっているのでした。

 その時は、絵を描くのも、文を書くのも大好きだったはずなのに、学校の訳の分からない国語教育とか、点数をつける芸術教育なんかに押しつぶされて、そのうち、自分の正当性を主張することは必ずしも社会に適応しないなんていう、大人の都合をいろいろ知って、なんだか毎日がものすごく窮屈で、作文とか静物画とかいう表現手法も大嫌いになっていた時期を通り抜けてきたのです。その後もいろいろあって、なんだかまた僕は、自由に書くという前提で、大好きな文章を綴るようになっていたのです。

 出版というのは、遡れば、「おはなししりーず」をかいていた4歳の頃からの僕の夢であって、今、それがちゃくちゃくと進んでいることがとても嬉しいのです。お盆なんかをはさむので、当初の予定より少し流通は遅れそうなんですが、9月頭には、なんとか流通にのせたいです。

 編集作業をすすめる過程で、漢字をひらがなに改める、いわゆる「ひらく」作業が行われるのですが、編集者によると、「無い」とか「実は」とかは、ひらいた方が一般的なのだといいます。本を開いたときに、黒い感じがするのは、本を難解なものと思わせ、活字離れがすすむ現代にはそぐわないのだと言うのです。僕はその文章の中で「尤も」なんて漢字を使っていたのだけれど、まあ、これをひらがなに改めるのは分かるとして、小学生が書くような字まで、ひらがなに改めるのが一般的だというのは、なんだか寂しい感じもします。

 今日、職場で、上司に「なあ、庭ってどう書くんだっけ?」と尋ねられて、一瞬考えてしまったという恥ずかしい事実は棚上げしておいて。