「冠婚葬祭」-0488-

 常に携帯電話の呼び出し音を警戒しながら生活している僕たち医者という人間にとって、親しい人の冠婚葬祭は、なんとか休みを頂いて、病院にはすぐ戻れない場所へ出かけることのできる数少ない機会の一つです。そして、できることならば、おめでたい席へ招かれて出かけていくのが、なんといっても楽しいのです。

 昨日は、医学部時代の同級生同士の結婚パーティーということで、東京へ出かけてきました。同級生同士ということで、招待客も大学の同級生の割合が高くて、ちょっとした同窓会気分も味わえるのでした。みんな、医師2年目にして、既に結構いろんなところに散り散りになっていて、こういう機会でもないと集まることもあまりありません。しかし、出席の予定だったのに、なかなか仕事から解放されず、結局来られなかった者もあれば、遠き病院から、受け持ち患者の状態悪化を知らされ、また遠い道のりを帰っていく者もあり、つくづく因果な職業だと思うのでした。

 ふっと学生時代を思い出し、国家試験前後の興奮とか、同時に感じた言いようのない寂しさとか、いろんなことを思い出しながら、最終に近い列車に乗り込み、今日の仕事のために帰宅したのです。

 結婚というのは、ひとつの幸せであることは確かなのですが、いろいろ思うことあって、僕の将来設計に、どうしても結婚生活を想像できず、結婚をしない場合のライフプランのほうが、なんだかしっくりくるのです。かといって、僕は僕で、自分の結婚式に友人を招いてみたいとは思うし、自分の子供を欲しいとも思うのだけれど、でも、結婚しなくていいものであれば、それはそれでいいと考えてしまうのです。

 それは僕の恋愛観とか、家族観とか、職種とか、いろんなことが背景にあって導き出されてきたものです。また、24時間仕事から純粋には解放されない生活の中で、自分という個人のプライベートも思うようにいかない中、果たして自分の伴侶とか、家族とかいうものを含めた、自分を含めた集団としてのプライベートがどうなるのか、全く想像もつかないのです。

 仕事のことだけをみれば、状況は全く同じような仲間が、結婚という手段を選択し、新しい家族として歩み始めるという姿に、全く自分を重ねることができないことに、なんとなく寂しさを覚えたりもしたのです。結婚をしたいと思えないことに対して、寂しさを感じるというのは、結局は結婚を求めているのか、僕の中の感情の矛盾です。