「同性愛考」-0487-

 ええと、何度か告知しているように、8月の発売に向けて、「お医者のタマゴクラブ」という本を作っているのです。不正確な記述を改めたり、日本語が変なところをなおしてみたりと、出版社の編集と平行して、僕独自の校正作業もすすめています。ネットなどを通して、たくさんの目に草稿をチェックしてもらっているのですが、その中で、割と大幅な加筆や訂正があったテーマがいくつか存在します。本当は、出版に至るまではネット上に公開するのはやめておこうとも思ったのですが、まだ活字になる前に、より多くの目に評価してもらい、より正確な記述をしたほうが良いと強く思うテーマがあるのです。

 同性愛についての記述は、過去何度かしてきましたが、僕らはそれに関して、決して正しい医学教育を受けてきてはおらず、文書となって存在するその多くが、だいたいにして誤解の固まりだったりもするようなのです。そんなわけで、今回、いろんな協力者を得て書き直した、現時点での、お医者のタマゴクラブ的「同性愛」を綴ってみようと思うのです。

お医者のタマゴクラブ Episode 11【同性愛は病か罪か】

 精神科の闇の部分と言えば、病院という闇の他に、社会の闇ともいうべき問題に、「同性愛」ということがあると思うのです。宗教や政治やいろんな思惑は、それ自体を罪とするような歴史を築いたわけですが、僕にはそれが罪悪だとは思えないのです。テレビや雑誌などで面白半分にとりあげられる同性愛問題について、特に同性愛反対論者の差別的発言には少なからずショックを受けているし、「日本社会は、同性愛者の存在を許してはいけない」「堕落した文化の産物だ」「男が女を、女が男を愛するのはあたりまえだから、同性愛は異常だ」といった声を聴くと、まだまだ理解されていないな、と思うのです。

 しかし、実際、医に携わる者をとってみても、同性愛を軽蔑したり、冗談の対象にしたり、さして一般とかわるところのない扱いがまだまだあります。いくら、精神科で「もはや治療の対象にはしていない」症状だと言ったところで、明らかに、異質なものとして扱っているのだし、異質だけど理解する、という方向へ持っていこうとしているという段階です。

 異性愛者が、同性愛者にアプローチされたところで、好みでない異性にアプローチされたのと同様に扱えば良いだけの話だと思うのですが、同性愛者が、まだまだオープンに存在できない社会が確実に存在します。例えば、あるテレビ番組で「アフリカに同性愛者がいない」というアフリカの方の発言がありましたが、どう考えても根拠は無く、日本にだって、カミングアウトできずにいる同性愛者が多くいるだろうことを考えると、社会的な理由を考えたほうが自然だと思います。アフリカにも同性愛者がいる、とは言い切れないにしても、同性愛者が仮にいたとして、それを許さない社会においては、それを隠して生きるだろうから実状はわからない、というのが真実であると強く思いました。

 精神医学的にも、異常として扱ってきた歴史が長く、その病名としての同性愛が差別用語として一人歩きしてしまっているようです。また、自分の心の性と体の性の不一致、すなわち「性同一性障害」といったものを混同しがちですが、これらは本来全く別の次元の事柄です。

 また、男か女かという二分法自体が、実は正しくなくて、実は虹のようにグラデーションを描くものだということが言われています。体の性、心の性、それぞれは本来多様であると言われます。「ニューハーフ」とか「マッチョ」という、ある誇張された一部分だけをみている限り、僕らは性を理解できないのだと思います。先ほどの「性同一性障害」の方々の恋愛の対象もやはり多様なのです。生活環境、ホルモン説など、同性愛についてはいろいろ言われていましたが、そういう要素を全て取り除いたとしても、数パーセントの割合で同性愛者は存在し、その性的指向は修正がきかないものだということが分かっているようです。あくまで嗜好ではなく、指向であって、同性愛者が、社会から差別されるいわれのないという事実くらいは裏付けされていると思うのです。

 しかし、世界的にみると、パートナー法などの制定で、同性愛者の権利を認める流れがある一方で、ソドミー法という、同性愛禁止法がまかりとおるところもあるようです。「自由の国」アメリカでも、依然多くの州にこの法律が残り、最大終身刑を規定する州もあるといいます。イスラム圏ではさらに深刻で、同性愛者であるという理由だけで、死刑に処されることがあり、そのために難民が発生しているのだそうです。そんな環境で、果たして「自分は同性愛者である」と言える人間がどれくらいいるのでしょうか。その重圧と苦しみに耐えられず、アメリカでは、5時間に一人の割合で思春期の同性愛者が自殺しているという推測がされています。

 宗教での「正常」なんてこじつけだと思うし、「子供ができない」という点には、「子供ができない夫婦はいけないのか」という反論がよくされているところです。とにかく、人の好き嫌い、愛の対象というものには個人差があるし、良い悪いということでも無いので、おそらく相当数、身近にいると思われる同性愛者がひっそりと苦しんで暮らさなければいけないというのは理解し難いのです。例えば、HIV(エイズウィルス)感染の差別にも繋がるのですが、おそらく、血友病患者に早くから認められた感染を隠し、同性愛とエイズのイメージを徒に結びつけた政府の陰謀も見え隠れしてくるのです。

 例えば、人間が人間を裁くことの可能性について論じられますが、「殺人」が罪であるかどうかと、「同性愛」が罪であるかどうかは別次元ではないでしょうか。何故なら、同性愛という概念は、感情の問題、その人間の本質の問題であって、単に行動の問題ではありません。僕には、社会がその歴史の中で、例えば宗教や法律の力で、都合良く善悪をコントロールしてきただけのように思えるし、感情の部分でどうにもならない部分を、同性愛の感情を持ってしまったことで、それをひた隠しにしながら、めくるめく罪の意識に苛まれなくてはならないのは酷であると思うのです。