「無罪判決」の人間を逮捕したことは正当なのか

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060303#p1
 大野病院事件については、「全力で高水準の医療が行われたものの、救命できなかった」ということであり、ミスということではなかったというのが僕の理解です。ですから、この事件を「ミス」「過誤」「事故」と表現し、残念ながら亡くなってしまった女性を「被害者」と表現することには強い抵抗を感じるのです。「加害者」ありきというマスコミの認識が改めて浮き彫りにされてしまうし、「加害者」なのに「無罪」という印象をリードしてしまうと思うからです。
 事前に詳しい説明がなかったというようなことも言われており、医療の不確実性などについても辛抱強く説明していくのは医師の役割だという世間の声もあります。その一方で、医療に伴って起こりうる最悪の合併症について事前に説明することを、脅しや責任逃れだと言われることもあります。
 僕が医師になりたての頃、インフォームド・コンセントというような言葉は生まれてそんなに時間が経っていませんでしたが、既に「癌を告知すべきか」というような議論よりは何歩も前進し、「医師の独りよがりではなく、いかに患者さんに正確な情報と選択肢を与え、選んで頂くか」ということをみんなが強く意識する時代でした。しかしなお、「稀に死亡することがあります」というような説明は、医師達自身が、徒に患者さんを動揺させるものとしてタブーとする傾向がありました。しかし、そこには、言葉をぼかした陰に、患者さんやその家族が、危険性について暗黙の了解があるという前提がありました。言葉にせずとも伝わる部分、行間を読み、お互いに心を理解し合っているということを信じた上で、「稀で重篤な合併症」の説明は省き、時にはほぼ治る見込みのない症例についても、言外に「ダメかも知れません」という思いを共有しながら「精一杯頑張って、病気を治していきましょう」と声をかけていたつもりなのです。
 実際に、若い医師たちが、国家試験の勉強で覚えた新鮮な知識で、患者さんへの説明で病気の合併症を羅列でもしようものなら、指導医からお叱りが待っていたし、民事の医療訴訟やマスコミの医療バッシングが増加してなお、医師同士の会合で、大先輩から「昨今では、安易に合併症を説明するような傾向があるが、寂しい傾向だ」などという講釈を頂いたものでした。そんな医師の誇りや良心に基づいた、真に患者さんのことを考えた上での思いをも、大野病院事件が破壊したのは間違いのないところであり、この事件をきっかけに、「重大な合併症の説明をきちんとしろ」という指導はされても、「徒に患者さんを不安にさせるな」という思いが、強く主張される場面は無くなっていってしまいました。
 また、こと医療においては、どんなに丁寧に説明し、図を示し、文章を渡したところで、それでもなお患者さんへの理解が足りなかったのは医師の説明が不足していたと、裁判のような場でも平気で主張されます。世論の多くも、医療という命に関わることにおいて、専門家が心を尽くして説明するしかないと言います。もちろんそれはそうなのですが、根底の死生観や道徳は、医師が教えるものではなく、皆が身につけているべきことだと思いますし、その前提無くしては、何も伝わりません。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20071222#p1

 家庭科だって学校で教えるのだから、医学も義務教育で教えたほうがいい。

 簡単なケガの処置とか、風邪や腹痛時の様子の見方とか、おそらく家庭の中で自然に受け継がれてきたはずのものが崩壊してきているのではないか。昔なら「ツバでも付けとけ」ですまされていたであろう擦り傷なんかで、真夜中の外来を受診する人は後を絶たない。ちょっとしたケガや病気で大騒ぎする子供をたしなめる存在であったはずの両親や祖父母が、たしなめるどころか子供よりも大騒ぎしていたりする。

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20071223#p1

 ただ、何というか、死刑賛成派が9割という結果を目にして思うのは、あまりにも「生命」ということへの理解が乏しいのではないかと思ってしまうのです。みなあまりにも、生ということも、死ということも、よくわかってないんじゃないだろうか。

 出産が命がけだということを忘れ、避けられない死があるということを忘れてしまう背景には、死ということはおろか、生ということすらも隠されてしまった社会ということがあるのではないかと強く思うのです。

 ミスや医療過誤は無いとは言いません。しかし、少なくとも、悪意に基づいて患者さんを害するというようなことは、皆無に近いと思っています。大野病院の事件については、ミスではなかったという認識なのは前述の如くですが、仮にミスが存在したとしても、それに刑事罰を与えるということへの抵抗感については、いままでも繰り返し述べてきました。もちろん、そのミスを繰り返すことの無いように反省すべきことは反省し、システムを改善し、罰ということとは全く別のところで補償や賠償を行うことは必要です。僕自身は、医療のみ免責せよという主張をするつもりはなく、過失犯全体の扱いについて、大きく見直すべきだと考えているのです。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20080426#p1

 井上清成弁護士は業務上過失致死傷罪の暴走について、最高裁判所1985年10月21日決定の、谷口正孝最高裁判事の補足意見を紹介し、以下のように解説している。

 「過失は、『重大な過失(重過失)』と『軽度の過失(軽過)』に分けることができる。『重過失』に対しては、『軽過失』に適用される過失致死傷罪(現行刑法209条、210条)では刑が軽いので、重過失致死傷罪が設けられる以前は、その代わりとして刑が重い業務上過失致死傷罪の『業務上』の解釈を拡張して適用していた。ところが、重過失致死傷罪(現行刑法211条1項後段)が設けられて、業務上過失致死傷罪(現行刑法211条1項前段)を拡張して適用するのは終わるはずだったけれども、いったん拡張してしまった業務上過失致死傷罪はそのまま“暴走”を続けて現在に至ってしまったのである。」

 業務上過失致死傷罪では、「軽度な過失でも処罰するという大前提がある」。刑法の適用を「重大な過失」に限定しようとする機運もあるが、なにをもって「重大な過失」とするのかが決まっておらず、「薬剤取り違えや患部取り違えは重過失と捉える」。悪質な事例を重過失とする意見もあるが、定義が明確でないため「営利目的、実験的、名声追求の利己目的、説明不足でも、どのようなものでも悪質というレッテルを貼られかねない」。さらに、「死因究明制度の議論は組織法、そして、せいぜい手続法の議論にすぎず」、「実体法的な観点から見ると、死因究明制度ができたとしても、現状と何ら変わるところがない」。流れが「『警察→鑑定』から『鑑定→警察』と逆になっただけであり、『患者遺族の刑事告訴→警察→鑑定』という既存の流れは温存されている」。

 そもそも、医療事故調査制度ができても、刑法211条が改正されない限り、歯止めは存在しない。業務上過失致死傷が問題になっているのは医療だけではない。特別扱いを要求すべきではない。他の分野を巻き込んだ大きな議論が必要である。

 刑事司法の暴走を止めるための有効な努力は、医療事故調査制度ではなく、刑法211条そのもののあり方を正面から批判する言論である。実際、福島県大野病院事件以後の現場の医師の広汎な言論活動により、医療への刑事司法の無茶な介入は以前ほど、目立たなくなっている。

 僕は、「医療を刑法で裁くな」というエントリ( http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060219#p2 )において、過失犯を裁くことへの違和感について綴りました。しかし、この違和感の根底には、医療に限らず、すべての分野における「過失犯」の扱いがあるのです。過失を犯したものが、民事の賠償責任を負うのは已むを得ない部分もあるでしょうけれど、やたらと警察が介入すべきことではないはずなのです。ですから、医師の刑事免責についてこの「第三次試案」にあれこれ言うのはあまり意味がないことであり、小松先生がおっしゃるように、医療だけ「特別扱いを要求すべきではない。他の分野を巻き込んだ大きな議論が必要である」のでしょう。実際に、刑法を改正しない限り、刑事司法は独自に動きます。

 さて、今回の事件は、医療界のみならず、法曹界こそを揺るがす事件だったように思います。少なからずネット上で主張されているように、逮捕・起訴に関わった警察や検察に「刑事罰を与えよ」とは僕は思いません。医療が万能ではないように、法律も万能ではありません。人はミスを犯すし、避けがたい誤認逮捕もあるかも知れません。しかし、医療というものが、健康を失いつつあり、なにかしらの手を加えないと重大な結果に繋がるというものであるのに比較して、逮捕や起訴というのは、何もしなければ健康で幸せな生活を送っていた人間に、言われ無き制裁を加えるものであり、むしろそのミスは重大な罪であると思うのです。
 法律関係者からはしばしば、逮捕や起訴というのは問題ではなく、あくまでも裁判の結果が重要だという意見を耳にしますが、逮捕・勾留の時点で、推定無罪の原則を完全に無視した人権侵害と実質的な制裁が開始し、しばしばマスコミは勝手に有罪認定し、名誉を傷つけます。それでいて、無罪確定したとしても、失ったものを取り戻すのに十分な補償がされているとは言い難いのです。
 医療ミスを過剰に責め立てれば、リスクの高い症例に手を出さず防衛医療の傾向になるであろうことと同様、誤認逮捕を過剰に責め立て、個人の責任を強く追求することは、警察の萎縮に繋がり、犯罪捜査に支障が出ると言うことは想像に難くありません。しかし、例えば医療ミスに関して(しばしばミスではなかったことまで含めて)、「犯してしまったミスをきちんと認めて謝罪し、次につなげることが重要だ」と主張されるのと同様、無辜の人間を逮捕し、実質的に制裁を行ってしまったことに対しては、誠実な謝罪と賠償、名誉回復の機会が必要だと強く思うのです。
 大野病院の事件に関してもやはり、無罪判決が出てなお、警察はその逮捕を正当なものであったとコメントし、「無罪という結果は、刑事責任を問うほどのミスは無かったというだけのこと」というような論調の報道が行われたりしています。
 繰り返し述べているように、今回の事件のきっかけとなった事故報告書をつくった人々や、警察・検察の関係者の「ミス」について処罰せよとはいいません。大切なのは、そのミスを反省し、次につなげていくことなのです。過失への処罰は、医療の現場に限らず萎縮を生むだけです。医療関係者にとってミスではなかったと思われるような症例について、「ミスをきちんと認めよ」という主張がされるよりは、今回の件は明白です。医療行為の正当性における複雑な議論よりは、「無罪」か「有罪」で結果がでる裁判において、「無罪」の人間を逮捕・起訴したということは立派にミスが証明されていると思うのですけれど、そうではないのでしょうか。また、今回の件に限らず、一刻も早く、日本にも、推定無罪の原則をふまえ、人権を侵害することのない成熟した刑事裁判のシステムを築いて欲しいと強く願います。
http://plaza.umin.ac.jp/~perinate/cgi-bin/wiki/wiki.cgi
http://spreadsheets.google.com/viewform?key=pVSu1jKcdiL1dT7HDioKlfA
 周産期医療の崩壊をくい止める会のホームページにおいて、「控訴取りやめ要望署名」が受け付けられています。
 最後に、「ある産婦人科医のひとりごと」に興味深いエントリがあったので引用しておきます。
http://tyama7.blog.ocn.ne.jp/obgyn/2008/08/post_d6f6_10.html

8月21日付けの朝日新聞・時時刻刻の記事の引用:

東京都内の大学病院で06年11月、癒着胎盤と診断された20歳代の女性が帝王切開で出産後に死亡するという大野病院事件と類似の事故が起きた。病院は胎盤をはがすことによる大量出血を避けるため、帝王切開後ただちに子宮摘出手術に移った。しかし、大量出血が起こり、母親を救命できなかった。病院はリスクの高い出産を扱う総合周産期母子医療センターだった。厚労省補助金で日本内科学会が中心に運営する「医療関連死調査分析モデル事業」で解剖と臨床評価が行われ、評価調査報告書の最後に「処置しがたい症例が現実にあることを、一般の方々にも理解してほしい」と記されている。