「良きサマリア人法」を希求する

 良きサマリア人法を望むということを初めて書いたのは2002/10/10のことでした。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060209#p3

 良きサマリア人法とは、「ボランティア診療において、故意もしくは重大な過失の場合を除き医師の損害賠償責任を免除する」というもので、善意の行動が必ずしも良い結果を生むとは限らない命相手の仕事において、しかも設備も体調も万全とは言えない緊急時に、僕らが安心してドクターコールに応じるためには不可欠なものだと思うのです。日本の現行法制では、全くの善意から名乗り出て、劣悪な環境下で懸命に治療したところで、医療ミス云々の訴訟を起こされると、それがどんなに一方的だったり、理不尽なものであったにせよ、裁判所に通って自分から免責を証明しなければならないのです。

 日本では、総務庁などにおいて「現行法の緊急事務管理により殆どカバー出来るので、新たな法制定は不要」としているのみです。「良きサマリア人法」では患者側が手当て者に重過失があったと証明しなければ、法廷で争えません。これにより、無駄な訴訟を抑制し、ボランティア医療への参加を促進することになるのです。

 それから5年半が経過してなお、我が国では「良きサマリア人法」を制定しようという動きはありません。
 日経メディカルの2007年5月号に「『ドクターコール』に応じますか?」という特集がされています。そこで、非常時の診療に対する法的責任について、「良きサマリア人法」が無いために心配するというのは過剰な反応だ、という論旨が掲載されています。

民法第698条で免責される

 ドクターコールの際の責任に関しては、民法698条に規定されている「緊急事務管理」が適用されると考えられる。よって医師は注意義務違反は問われない。これは「義務なく」行為を実施することが前提となっているが、「ドクターコールに対しては、医師法の応召義務がないとするのが普通のとらえ方」(東京大学大学院 法学政治学研究科 教授 樋口範雄氏)。
 樋口氏は、「善意の救助が厳しい環境で行われたとき、よくない結果になっても、緊急事態における過失判断は厳しいものにはならない。重大な過失があったときでさえ、『責任が問われるか』と聞かれれば、私は『ないでしょう』と答える」と語る。民法で、ドクターコールに対する処置は基本的に免責されているのだ。
 「良きサマリア人法」を日本でも作るべきという議論がある。この法は、善意の救助のための行動には、重大な過失がなければ責任を問わないという趣旨のもので、米国などで制定されている。
 善意の救助者の免責は、既に民法上でも確保されていると考えられるが、それが国民や医師に広く知られていないことこそが問題だ。「周知効果のためだけでも意義は大きい」と、樋口氏は法制定を支持する。

民法【第698条】〔緊急事務管理
管理者(義務なく他人のために事務の管理を始めたもの)は、本人の身体、名誉又は財産に対する急迫の危害を免れさせるために事務管理をしたときは、悪意又は重大な過失があるのでなければ、これによって生じた損害を賠償する責任を負わない。

 僕は、良きサマリア人法の制定は、単なる「周知効果」ということだけではないと思います。民法698条の適応のためには、手当した側が、「緊急事務管理」であったこと、そして重過失がなかったことを証明する必要があります。これに対し、前述の如く、「良きサマリア人法」では患者側が手当て者に重過失があったと証明しなければ、法廷で争えません。これは大きな違いだと思います。
 日本の現行法制では、全くの善意から名乗り出て、劣悪な環境下で懸命に治療したところで、医療ミス云々の訴訟を起こされると、それがどんなに一方的だったり、理不尽なものであったにせよ、裁判所に通って自分から免責を証明しなければならないのです。
 Wikipediaにおいて、立法不要論の根拠として以下のように記述されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%8D%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%B3%95

 しかし、新たに立法しなくても緊急事務管理に関する規定で間に合うのは前述のとおりであり、実際には仮に救命手当を施して、蘇生後に何らかの身体傷害が残ったとしても、善意に基づくものであれば現在の日本では民事上も刑事上も免責されるとするのが法学者の通説であり、警察庁総務省厚生労働省日本赤十字社などが共同で編纂した「救急蘇生法の指針」においても免責がはっきりと謳われている。また2006年11月現在の時点で、救命手当を施して蘇生後に何らかの身体傷害が残ったとして責任を問われた例は一例も無い。

 しかし、良きサマリア人法の適応からははずれるのかも知れませんが、臨床の現場において、医療の専門家からみると言いがかりとしか思えないような、あるいは、神の如き能力を要求するような裁判が頻発しています。そういった実情を鑑みると、実際に医療に携わる者としては、「通説」でも「解釈」でもなくて、あくまで新しい法律を望みます。
 本当は、ボランティア診療に限らず、応召義務によって受診依頼を基本的には断れない医師が、「重過失や悪意」以外で刑事罰に問われることがあるという現状にも、強い憤りを感じています。最終結果としての有罪・無罪以前に、「裁判を受けなくてはならない」、「罪の確定以前に、マスコミのバッシングによって勝手に断罪されてしまう」ということへの疑問です。もちろん、なんでもかんでも「医師の罪は免責せよ」ということではありませんが、少なくとも、「重過失や悪意」がはっきりとしないうちに、裁判ということに持ち込まれてしまうことは大問題だと思います。法律家には、裁判が起きる時点では、罪や賠償責任が確定しているわけではないのだから、大切なのは結果だという意見を伺うこともありますが、現時点では、裁判を受けなくてはいけないという時点で、既にかなりの制裁を受けているように思います。無罪だった場合の、名誉回復や補償も全く不十分です。
 福島県立大野病院の事件について、現在刑事裁判が行われていますが、この裁判などは愚の骨頂であります。医療についての基本的な知識に欠如した検察が、専門的医療について罪を問うているのです。自分たちに都合のよい証拠のみ採用し、医療の専門家の言葉を無視しています。当人たちがどう考えているのかはわかりませんが、僕はこの裁判は、司法の問題点をさらけ出すものであり、単にこの事件の公判という意味を超え、司法が試されている場であると考えています。
 公判については、以下に詳しいです。

周産期医療の崩壊をくい止める会のホームページ

http://plaza.umin.ac.jp/~perinate/cgi-bin/wiki/wiki.cgi
 また、過去に刑法に関する違和感について書いたことがあったので、下に挙げておきます。

医療を刑法で裁くな

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060219#p2