大野病院事件、無罪判決

http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060303#p1
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20080819#p1
 大野病院事件に司法は無罪という判断を下しました。妥当な判決だと思います。この裁判は医療の問題というよりは、日本の警察や裁判の問題を浮き彫りにしたと言えます。そもそも、この事件がなぜ、逮捕・起訴ということになったのか。福島県警は、なぜ大野病院事件を表彰したのか。マスコミは無罪判決を受けてなお、遺族や故人を「被害者」と表現し続け、「現に人が一人死んでいるのに、それに関わった医師は無罪」といったような印象の記事を報道するのか。
 ネット上のニュースをクリップしておきます。id:shy1221さんのところで触れている記事を、魚拓ごと使わせて頂いています。

医療界挙げて被告の医師支援…帝王切開死判決(読売)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080820-00000023-yom-soci (魚拓)

 弁護側は、周産期医療の権威とされる池ノ上克(つよむ)・宮崎大医学部長と岡村州博(くにひろ)・東北大教授を証人に呼んだ。2人は「被告の処置に間違いはない」と述べた。

 これに対し、検察側の立証は押され気味となった。検察側証人の田中憲一・新潟大教授は「はがすのが難しくなった時点で、直ちに子宮摘出に移るべき」と証言したものの、どの時点で子宮摘出を決断するかについては、「そこは医師の判断」と断言を避けた。

福島県大野病院事件福島地裁判決理由要旨(朝日)

http://www.asahi.com/national/update/0820/TKY200808200207.html (魚拓1)

 本件では、癒着胎盤の剥離を中止し、子宮摘出手術などに移行した具体的な臨床症例は検察官、被告側のいずれからも提示されず、法廷で証言した各医師も言及していない。

 証言した医師のうち、C医師のみが検察官の主張と同趣旨の見解を述べている。だが、同医師は腫瘍(しゅよう)が専門で癒着胎盤の治療経験に乏しいこと、鑑定や証言は自分の直接の臨床経験に基づくものではなく、主として医学書などの文献に頼ったものであることからすれば、鑑定結果と証言内容を癒着胎盤に関する標準的な医療措置と理解することは相当でない。

 他方、D医師、E医師の産科の臨床経験の豊富さ、専門知識の確かさは、その経歴のみならず、証言内容からもくみとることができ、少なくとも癒着胎盤に関する標準的な医療措置に関する証言は医療現場の実際をそのまま表現していると認められる。

 そうすると、本件ではD、E両医師の証言などから「剥離を開始した後は、出血をしていても胎盤剥離を完了させ、子宮の収縮を期待するとともに止血操作を行い、それでもコントロールできない大量出血をする場合には子宮を摘出する」ということが、臨床上の標準的な医療措置と理解するのが相当だ。

また、医療行為が患者の生命や身体に対する危険性があることは自明だし、そもそも医療行為の結果を正確に予測することは困難だ。医療行為を中止する義務があるとするためには、検察官が、当該行為が危険があるということだけでなく、当該行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにしたうえで、より適切な方法が他にあることを立証しなければならず、このような立証を具体的に行うためには少なくとも相当数の根拠となる臨床症例の提示が必要不可欠だといえる。

 しかし、検察官は主張を根拠づける臨床症例を何ら提示していない。被告が胎盤剥離を中止しなかった場合の具体的な危険性が証明されているとはいえない。

 本件では、検察官が主張するような内容が医学的準則だったと認めることはできないし、具体的な危険性などを根拠に、胎盤剥離を中止すべき義務があったと認めることもできず、被告が従うべき注意義務の証明がない。

 そもそも、結果が不確実な医療において、誰かの個人的な意見が唯一正しいとされることなどありえないのです。検察は、被告を有罪にするためだけに動くのではなくて、きちんとひろく臨床家の意見をきくべきであったのに、ただただ医師に罪を問う鑑定結果を求めたのだと言わざるを得ないと思います。日本の裁判の証拠採用仕方の問題点が根底にあるのだと思います。逮捕につながったのも、代用監獄で精神的に追いつめて必ずしも正確ではない自白を強要し、その自白を偏重するという大きな問題が背景にあったからでしょう。

<大野病院医療事件>判決に被告は安堵 遺族は目を閉じ…(毎日)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080820-00000042-mai-soci (魚拓)

 K医師は初公判から「切迫した状況でできる範囲のことを精いっぱいやった」と無罪を主張しつつ、謝罪も口にし、今年5月の最終意見陳述では「できる限り一生懸命行ったが悪い結果になり、非常に悲しく悔しい思い」と述べていた。

 一方、死亡した女性は出産後、対面した長女の手をつかんで「ちっちゃい手だね」と声をかけたという。その後胎盤剥離(はくり)を経て容体が急変し、輸血などの措置が講じられたが、出産の約4時間半後に死亡した。

 Wさんは判決を控えた今月12日、毎日新聞の取材に応じ、公判で繰り返し謝罪したK医師に対し「わびるなら、娘が生きている間になぜ医療の手を差し伸べてくれなかったのか。絶対許さないという気持ち」と怒りをあらわにした。

 娘の死の真実を知ろうと、医学用語をはじめ、帝王切開手術の知識を医学書やインターネットで調べ、ファイルにまとめた。医療事故を機に生活は一変し、「笑顔がなくなった」と語る。孫に「母親」を意識させたくないと、家族連れが集まる場所には連れ出さないという。

「なぜ事故が」…帝王切開死、専門的議論に遺族置き去り(読売)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080820-00000018-yom-soci (魚拓)

 Wさんは判決前、「なぜ事故が起きたのか、なぜ防げなかったのか。公判でも結局、何が真実かはわからないままだ」と話した。

 あの日、妻(55)から「生まれたよ」と連絡を受けて病院に向かった。ハンドルを握りながら、娘に「もうすぐクリスマスとお正月。二重三重の幸せだな」と声をかけようと考えていた。

 病院に着くと悲報を聞かされた。1か月前、左足を縫うけがをしたWさんを、「体は大事にしなよ」と気遣ってくれた娘だった。

 帝王切開で生まれた女の子と対面した娘は、「ちっちゃい手だね」とつぶやいたという。これが最期の言葉になった。娘の長男が「お母さん起きて。サンタさんが来ないよ」と泣き叫んだ姿が脳裏から離れない。

 「警察に動いてほしかった」と思っていた時、K医師が逮捕された。

 「何が起きたのかを知りたい」という思いで、2007年1月から08年5月まで14回の公判を欠かさず傍聴した。証人として法廷にも立ち、「とにかく真実を知りたい」と訴えた。「大野病院でなければ、亡くさずにすんだ命」と思える。公判は医療を巡る専門的な議論が中心で、遺族が置き去りにされたような思いがある。

 医療判断の是非を問う裁判で、医療を巡る専門的な議論以外に何をすればよかったのでしょうか。医師が「謝罪」したのは、自分の罪を認めたとかそういうことではなくて、自分が関わった患者さんが不幸な転帰をたどったことに対して、それを真摯に反省し、哀しみを分かち合うということの表現です。我々医師達は、不幸な症例について、カンファレンスや学会などで議論することがあります。これは、将来の医療の向上のために、過失ということに限らずあらゆる観点から反省点を出し尽くしているのであり、これが医療の進歩を支えてきたのです。反省点と過失は必ずしも一致しませんが、これはしばしば過失を認めたことと誤解され、「被害者」や法律の土壌では同一に扱われているように感じます。
 そのため、医師に神の如き能力を求めたり、過失に関わらない不幸な結果の責任を医師に負わせるなど、医療者からみてあまりにも現実的ではない判決が少なくありません。世論や法律の世界において、病気はすべて治るものであり、悪化したり死亡したりするのはミスがあったからだという前提で動いているのではないかと思われることが多々あります。医療においては、全くの善意で懸命な治療を行ったとしても不幸な転帰をたどることは少なからず存在します。あの時もし別の方法を選択していたら、という反省はいくらでもできますが、それは結果論であり、同じ疾患に同じ治療が同じ効果を生むわけではないという結果の不確実性という医療の特徴から言っても、それらの反省点について糾弾するというのは相応しくありません。
 裁判は、残念ながら必ずしも真実を明らかにするとは限りませんが、少なくとも今回の事件においての、医学的な真実というものはきちんと呈示されたと思うのです。しかし、今日という日を迎えてなお、遺族がいまだ「真実」を求め、K医師に厳罰を望むというのは、「K医師のせいで妊婦が死亡した、K医師が悪いことをした」と思わせるのに十分な警察、検察、マスコミのミスリードが重なった結果だと思います。そうした積み重ねが、遺族の求める「真実」は、言葉通りの「真実」ではなくて、妊婦の死の責任が医師にあるという、遺族の思いこんでいる「真実」にすり替わっているのだと思います。
 第12回公判(2008.1.25.)で、故人の家族の意見陳述がありました。
http://plaza.umin.ac.jp/~perinate/cgi-bin/wiki/wiki.cgi?page=%C2%E8%BD%BD%C6%F3%B2%F3%B8%F8%C8%BD%A4%CB%A4%C4%A4%A4%A4%C6%2808%2F1%2F25%29

【夫より】
K先生の手術の内容は、弁護側の先生からは誰でもする、特に問題がなかった、と言われました。何も問題がなければ、なぜ、妻は死んでしまったのか、とても疑問です。

【父より】
癒着胎盤が極めて稀で、一人の産婦人科医が一生に一回遭遇するかどうかであるとか、1万分の1、とか、2万分の1とか、難易度が高いとか、大出血は稀だとか、亡くなったのは娘のせいだとか、二人目の出産はダメだといわれたのになぜ生んだかとか言われました。これらは、亡き娘に対する人権侵害、誹謗であり、遺族は逆境の中にいます。

 医学的に避けがたい死、誰のせいでもない死の存在を受け止めて頂かないことには先に進めません。医学的に正しいと思われる診断の説明を「亡き娘に対する人権侵害、誹謗」とされてしまうのでは、到底真実にはたどり着けません。かつて、「訴訟を起こされるのは真実を語らなかったから?」というエントリを綴りました。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20060317#p1

 話が多少飛躍しますが、これを、人が最も受け入れがたい「死」というものに当てはめて考えてみます。キューブラー・ロス博士によれば、避けがたい死を感じた時、人はまず、第一段階として「否認と孤立」という状態を迎えます。自分がそんな病気にかかるわけがない、死ぬわけがないという気持ちです。そして、それが事実であるということを感じる段階で、その受け入れがたいものに対し、なぜ私がと「怒り」、もし自分の死が避けられるのなら、社会貢献がしたいとか、今までの罪を懺悔するとか、神のような人知を超えたものに対し「取り引き」を行います。それが無駄だと悟った段階で、気分が落ち込み「抑鬱」となり、そうした葛藤をのりこえた後に、怒りも抑欝も超えた、悟りの境地とも言うべき、穏やかな「受容」の段階となります。うまく段階を踏めた人にとっては、その死も安らかです。

 誰かのせいにするというのは、死を受容する五段階のうち、「怒り」の段階から先に進めていないことになります。自分の死に限らず、家族の死などにも当てはまってくると思います。医者は、多くの死に立ち会い、その都度、正常な感情としての怒りをぶつけられたとしても、それにじっと耐えています。そして、その先の段階に進んでくれることを期待して、安らかに見送りたいと考えます。怒りを受け入れるのは、決して自分にやましいことがあるからではありません。しかし、こうして怒りを受け入れることが「ミスをみとめた」というような誤解を受けて、訴訟や刑事罰が入り込んでくるようになってしまえば、仮にその判決がどちらに転んでも、とうてい「受容」の段階には進めないのではないかと危惧しているのです。

 今回の件も「怒り」から先には進めない状態になっているように思います。もちろん、突然家族を亡くした哀しみは理解できますし、その真実を追い求める姿勢は間違っているものではありません。遺族の方々のそうした思いを誹謗・中傷するつもりは全くありません。しかし、正しいことは正しいこととして、受け入れて欲しいと思うのです。
 以前「誹謗中傷」というエントリに綴ったように、ネット上などのごく一部で、遺族に対しての誹謗ととられかねないような表現があることは確かだと思います。しかし、その多くは、あくまで今回の件についての医学的真実を訴え、遺族の方々が誤解されている部分を指摘しているものだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20080520#p4

 医師たちが自分の良心と「反省」を前提に、患者側からの感情的な言動をじっと受け止めているわけですが、それはあくまで医師たちの良心に基づいた結果であって、「何の罪もない」医師を「誹謗中傷」しても良いということではありません。それを黙って受け止めることが、患者さんやその家族が立ち直るための重要なプロセスであると考え、きつい仕打ちに耐えてきたのに、まるで医師を殺人者のように扱うような世の動きに耐えきれず、言われ無き誹謗中傷に反論し始めたというのが真実だと思います。

 誤解に対する真っ当な反論を「誹謗中傷」として捉えることは、誰の利益にもならないと思うのです。また、我々の思いとしては、何の罪もない医師に不幸な転帰結果責任を問い、逮捕・勾留し、刑事裁判にかけるということや、医療関係団体の相当な批判の中にありながら、逮捕に関わった警察署を表彰するような行為こそが、医療に対する冒涜であり、誹謗中傷に他ならないと強く思うのです。