「金沢へ」-0498-

 肝胆膵外科関連会議という学会が金沢であって、前にいた病院の症例をそこで発表することになっていたので、水曜日から三日間、出張してました。名前とか雰囲気からすると、その道のエキスパートたちが最先端の話題で議論しあうような場所にも思えるのですが、実際はそうでもない部分も多いです。

 いままで数回、学会発表をこなしてきて、いくらかは周りを観察する余裕もでてきました。学会全般に言えることですが、もちろん、レベルの高い部分もあるのだけれど、よくよくみれば、あきらかにペーペーの医者っていうのが、どもりながら発表したりもしているのです。もう、発表だけで全ての知識をはき出しているので、質問とかされると、共同演者に名を連ねる、おそらく指導医の出番になるわけです。大部分は、演者が余演会を行ったり、同じようなテーマの論文を読み込んだり、質問を想定したりと、まるで口頭試問に備える学生のようなことをしてくるので、共同演者の見守る中、自力でなんとかするんですが、たまに、指導医も激しく突っ込まれたりして、歯切れが悪くなる場面もあるんです。

 いままで、何度か日記などにも書いてきていることですが、僕はいわゆる研究者という人々の中で、やはり医学者は特殊だと思うのです。実学として、臨床を実践することからは逃げられないわけであり、また、多くの医学を志す人間が、臨床家としての医者のイメージを追い求めてこの世界に入ってくるのです。

 僕もやはり、臨床家を目指して医師免許を手にした一人です。研究という土壌がなければ、臨床は発達しないし、もちろんとても大切なことなのですが、限りある人生の中で、研究と臨床を真に両立することは不可能だと思うし、特に外科医を目指す僕にとって、試験管を振るよりは、メスを振るっていたいというのが正直なところなんです。

 例えば、遺伝学だとか生物学的研究は、理学を修めた専門家のほうがよっぽど向いていると思うのです。もちろん研究は大事だと思うし、臨床が目の前の一人しか救えないのに、研究成果が世界中の数万人を救うのかも知れないのだけれど、とにかく、それはどちらも必要で、だけど両方を突き詰めるのは難しいと思うのです。研究という視点が、臨床の理解を深めるという人もいるし、自分が理想の臨床をするために、それなりの地位につくための手段として、研究成果や学位が求められるという現実もあるのだけれど、どうも僕にはピンと来ないのです。

 学会という場所で、学術的な意味よりも、そのお祭り的な、お飾り的な面が目に付いたりすると、余計そういう思いは強くなるのです。満足に休みなんてとれない僕らにとって、学会に演題を出せば、その日は大手を振って病棟を後にできるわけで、みんな昼間は学会場をふらふらしているけど、スキをみて観光したり、夜は飲みにいったりするのです。病院の急患で呼ばれる心配もまずない唯一の時間。

 そういうことを考えていたらなんだか疲れてしまいました。あと、男性ばかりで飲みに行くと、キャバクラとか、風俗店とか、そういう方向へ目的を定めたり、性の話題などの低レベルな会話を臆面もなくしていたりされて、やはり僕はそういう空間が苦手だという認識を新たにしたのでした。

 全く関係ないのですが、9月の出版に向けて鋭意制作中の、「お医者のタマゴクラブ」初稿は、金沢へ向かう特急の中で最終チェックし、ホテルから出版社へ送りました。自分の綴ったテキストをしつこいくらい読み返していたので、自分の感じる矛盾とか、不満とか、不安感とか、いろんなことを考えすぎたのかも知れません。