2003/11/15(土)「信頼の医療」

 基本的には人と人の信頼関係です。医者の技術はもちろんみな違うし、患者は故障したテレビではなくて、一人の生きた人間なのです。至極真っ当な医療行為でも、いくらかの割合で悪い結果を生むことは当然あるわけで、医療ミスと合併症は全く違う話です。かつては、明らかな治療のミス、例えば薬効が逆の薬を使うようなこととか、悪質な隠蔽行為などがない限り、医者が法廷に立つことはなかったわけですけれど、昨今は、医者の目から見れば、「これが医療ミスというのは言い掛かりもいいとこころだ」ということが訴えられるのです。

 日本の医者はただでさえ「応召義務」で縛り付けられ、代休もない当直を連日こなし、専門外の患者を診療するのです。当直している病院で、急患の要請があれば、極力対応してあげたいと考える医者が多いことを信じますが、昨今は、善意だけで行動するととんでもないことに巻き込まれる可能性が高いのも事実です。

 休日夜間に、僕もいろんな病院で当直勤務をしますが、正直患者さんを受け入れたくないな、と考えてしまう場合があります。例えば、施設やスタッフの問題。僕はジェネラリストを目指すし、割と範疇の広い「外科」を専門にしているので、いわゆる一般外科をこえて、頭部外傷とか骨折とか、鼻出血とかいう広い意味での外科的急患にも対応しますし、あるいは胸痛、腹痛といった内科・外科どちらの症例か不明なものに対しても対応します。適切な初期診療、プライマリ・ケアを行ったのち、専門医の診察が必要なものは、搬送や再診の手続きをとります。施設によって、夜間休日でも採血検査からレントゲン、CTなどすみやかに対応できるところから、せいぜい尿検査くらいしかできないところまで様々で、駆け込み患者は仕方がないにしろ、あまり検査のできない病院に、明らかに結局搬送しなければいけないような患者を受けるという行為が、果たして本当に優しい行為なのか思い悩むのです。あとは、看護師や検査技師の技量。医者一人で出来ることは限られています。本来耳鼻科医しか診ないような鼻出血患者に適切な処置を施すためには、適切な器具やガーゼや薬品をすみやかに用意してくれる人が必要なのです。緊急内視鏡には準備と介助が必要だし、「機械はそこにありますけど」とか言われても困るのです。入院の対応が可能かどうかや、それぞれの専門医のオンコール体制がしっかりしているかとか、ほかにもいろんな要素がありますが、月に一度くらいしかいかない老人病院で、幼児の発熱とか腹痛の救急要請があっても、「はい、すぐ来てください」と言えない僕がいるのです。しかし、なんだか知らないけれど、そういう病院も「救急指定」とか書いてあるのですよ。

 例えば、明らかに軽傷の外来受診者は、恐らく医者に「大丈夫です」と言って欲しいのだと思います。でも、いろんな理由があって、そうは言えないのです。人間が人間を診て100%の確率でものをいうことなんてできないし、病院を受診した時点で、医者の発言やカルテ記載は、それぞれ責任を持ち始めるのです。99%何も無さそうな患者さんに対しても「いま出来る範囲の検査と診察からは、緊急性のある病気の可能性は低いと思いますが、これからの時間経過による変化や、一度だけしかしていない検査で見落としが無いとは言えませんので、経過をみて、必要ならば早いうちに連絡もしくは再診をしてください」なんて言う羽目になるのです。非常にまどろっこしい。けれど、それをしないと万が一何か起きた場合に訴えられる時代なのです。もはや医療の本質ではないと思うし、誰も得をしないと思うのだけれど、もう既にそうなっているのです。

 医薬品には添付文書というものがあり、禁忌項目が記述されています。数パーセントの割合で重篤な合併症が起きる可能性がある、という理由で禁忌とされているものがたくさんあります。僕が外来で一番困っているのは、喘息患者に対する痛み止めの処方です。「ロキソニン」や「ボルタレン」などのNSAIDsと分類される痛み止めのほとんどが、喘息患者に禁忌もしくは慎重投与で、現時点で、外来処方できる良い薬がありません。「ピリナジン」など、アセトアミノフェンという、NSAIDsよりははるかに合併症の可能性の低い薬に対しても基本的に処方しないことになっているようなのです。実際は、喘息の中でも、アスピリン喘息である場合に絶対的禁忌なのですが、その診断がきちんとついていないことが多いのです。

 患者さんの中には、喘息の既往があるものの、しばらく全く発作もなく、前医でずっと「ロキソニン」を飲んでいるというような人もいます。いろんな考え方があるでしょうが、僕はそういう場合でも、原則痛み止めを処方しません。患者の前で前医を否定したりはしませんが、僕の考えとしての、喘息と痛み止めの関連性をよく話した上で、僕の名前でそれを処方することは勘弁してもらっています。責任逃れ、なのかも知れません。実は、ある病院で、こうして何の問題もなく、長期間痛み止めを使っていた患者さんが、ある時に限って痛み止めによる喘息発作を誘発し、生死を彷徨ったのち、病院側がその非をせめられて大騒ぎになった事例があるのです。患者さんが「今まで飲んでいたのだから大丈夫。処方してくれ」と強く依頼した上での処方であったとしても、昨今の我が国の医療訴訟では、ごねた者勝ちみたいな判例がいくつもあるのです。痛み止めを出さなければ、患者にうらまれるかも知れないが、痛み止めを出したことによって、人生を棒に振るかも知れない、という警句を発する医者がいます。痛みでは死なないけど、発作で死ぬ人は少なくない。でも、これでいいのだろうか、と強く思うのです。そのうち、薬を出す度に分厚い説明書を渡さなくてはならなくなるかも知れません。薬である以上、副作用は当然あります。予測不可能なことも多いのです。すべての可能性を話すということは、重要なことが伝わりにくくなることでもあるのです。

 カルテ記載の方法として、僕らが学ぶもののひとつにSOAPというものがあります。Subjective(主観的データ), Objective(客観的データ),Assessment(評価),Plan(計画)という記述の仕方で、例えば、ある心窩部痛の患者に対して、次のような記述をします。S)「夕食後からみぞおちが痛い」O)胸部呼吸音・心音正常。腹部平坦、軟。採血データ異常なし。A/P)急性胃炎疑い。マーロックス処方する。明日胃カメラ

 これが例えば結果として心筋梗塞だったとして、後に訴えられたとします。カルテは証拠として扱われ、「急性胃炎疑い」という部分がクローズアップされます。いくらあとで「もちろん心臓・肺・消化器それぞれの疾患の可能性を考えたが、最も疑わしい疾患に対しての治療を検査に先行して開始した」と言ったところで、カルテから「主治医は胃腸炎という診断に固執し、他の重大な疾患を見落とした」と言われてしまうのです。医療訴訟大国アメリカでは、既にカルテには余計なことを書かないことになっているらしいです。この例ならば、A/P)なんて記述せずに、処方内容だけを書いておくそうです。思考過程、診断の過程などは、一切カルテに残さず、説明を求められたら、「様々な疾患を考えた」ことに対して言明するらしいです。最初につくられたものに対して、あとから揚げ足をとることは容易です。僕らは先にも述べたように、何事も100%の確信をもってのぞむことは難しく、しかしやってくる救急患者や、病棟での急変に、できる範囲で対応するのです。もちろん、技術不足や、結果としての誤診などはあるでしょうけれど、それを全て「医療ミス」と片付けられては、もう僕らは患者なんて診られません。

 さきほどの「ロキソニン」の例ではないのですが、病院は専門家が判断して、患者がその中から何かを選択する場所で、患者の望むことがすべて叶う場所ではありません。意地悪で痛み止めを使わないとか、意地悪で点滴しないわけではなくて、必要なものを、専門の知識で判断しているのです。それを尊重するのは必要だと思うのです。それが無ければ治療になりません。中には、よくわからない医学知識を振りかざして、全てにつっかかってくる人もいますが、その情報源がワイドショーだったり、知り合いのなんとかさんだったりしてうんざりするのです。これもエスカレートすると、医者同士のカンファレンス並の情報を求めてくる家族がいたりして、しかし、それを聞く家族は医学的には素人で、結局治療法を何一つ選択できず、かといって医者の独断でなんらかの治療をすすめるわけにもいかないのです。そうやって、何も決められず、集中治療室で点滴だけしている患者を診ていたこともありました。

 僕は今の、医療訴訟が正義だと煽るような流れをどうにかしないと、結果として医者は面倒な患者を避けるし、突っ込んだ治療に手を出せなくなると思います。だいたい人の体をどうにかしようっていうのに、完全に安全な方法なんてあるものか。