2002/10/10(木)「良きサマリア人」

 世界で最大のベストセラー書に、こんな一節があります。

 ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追い剥ぎに襲われました。その人は、追い剥ぎに身ぐるみはがされ、半殺しにされた上、その場に放置されました。たまたまその道を下って来たある祭司はその人を見ると、道の向こう側を通って行ったのです。あるレビ人(聖職につく人々)も道の向こう側を通って行きました。しかし、そこを通りがかったあるサマリア人(エルサレムからは疎外されていた人々)は、その人を見て憐れに思い、近寄って、その人を救ったのでした。

 いわゆる聖書のお話です。僕はキリスト教徒というわけではないので、教義について語るつもりはありません。このいわゆる「良きサマリア人」のお話にちなんで、アメリカ各州には「良きサマリア人法」という法律があるんだそうです。

 あの有名な訴訟国家アメリカ合衆国において、道端で倒れている人が放置されないですむための拠り所のような法律なんです。「お客様の中にお医者様はいらっしゃいますでしょうか?」とかいう航空機内のアナウンスは、僕は幸運にも、まだドラマの中だけでしか耳にしたことはありません。僕は確かに、道端で倒れている人を救いたいとか、全身を診たいとか、そんないろんなことを考えて外科医になったわけですし、当然真っ先に駆けつけたいところなんですが、そんな僕らを守ってくれるものは、ここ日本には存在しないのでした。

 良きサマリア人法とは、「ボランティア診療において、故意もしくは重大な過失の場合を除き医師の損害賠償責任を免除する」というもので、善意の行動が必ずしも良い結果を生むとは限らない命相手の仕事において、しかも設備も体調も万全とは言えない緊急時に、僕らが安心してドクターコールに応じるためには不可欠なものだと思うのです。日本の現行法制では、全くの善意から名乗り出て、劣悪な環境下で懸命に治療したところで、医療ミス云々の訴訟を起こされると、それがどんなに一方的だったり、理不尽なものであったにせよ、裁判所に通って自分から免責を証明しなければならないのです。

 日本では、総務庁などにおいて「現行法の緊急事務管理により殆どカバー出来るので、新たな法制定は不要」としているのみです。「良きサマリア人法」では患者側が手当て者に重過失があったと証明しなければ、法廷で争えません。これにより、無駄な訴訟を抑制し、ボランティア医療への参加を促進することになるのです。

 応召義務とかなんだとかで、場合によっては不眠不休で、自らの命を削って医療行為にあたらなくてはならないのに、その真っ当な行為を保護するような法律が何も無く、すぐに民事裁判、悪くすれば刑事裁判に巻き込まれてしまうという風潮。これがすすんでいけば、僕らは危険が高い症例へ接することをどんどん避けるようになってしまうかも知れないし、たらい回しにされてしまう患者が現れるかも知れません。

 医療という聖職視された世界において、聖職者は当然奉仕の精神で、自己犠牲を厭わず働くのがあたりまえだというイメージが強すぎて、権利だとか訴訟だとか、マイナスなイメージを伴う話題は、タブーとされてきた部分も多かったのでしょう。不眠不休で常にかけつけて、診療にあたる行為は、一見愛にあふれた行為にもうつりますが、永遠にベストの体調を維持できるわけではないし、専門以外の苦手な分野もあるだろうし、いくらかの割合で、当然誤診もあると思うのです。重大な過失とか、故意の傷害行為などは、もちろん罰する必要があると思うのですが、最低限の権利は守られなくてはなりません。

 飛行機の中だけに限らず、通常勤務に引き続き行われる当直業務とか、いろいろ見直さなければならない点はあるのだと思います。もちろんそれと全く同じというわけにはいかないでしょうが、医師だって看護師のような三交代制、あるいは二交代制に倣った勤務態勢をとってもいいと思うのです。

 念のため追記。聖書の良きサマリア人の説教の内容と、この法律の意味や僕の主張はあんまり関係ないと思います。