推定無罪

 なぜみんな冤罪に無頓着なんだろうか。
 直接証拠とは全く関係のない次元で、マスコミのえげつない報道や、タレント医師やわけのわからないコメンテーターの主観的でいいかげんな決めつけで形成された、「あいつは悪い奴だ」というイメージだけで断罪される、推定無罪のはずの「容疑者」。僕は自分がいつ濡れ衣を着せられてその立場に立たされるか怖くて仕方ないのだ。
 犯罪被害者が「犯人には極刑を望みます」とかいう気持ちは分からないでもないけれども、「容疑者」が無罪を主張するのを全て「反省が足りない」とか言われてしまう自由心証主義もどうにかならないものか。僕は、自分が被害者になったとして、誰の目にも明らかな犯人がいるならば、その人間に刑罰が与えられるのを望むとは思うけれども、そうでないならば、きっと犯人かどうかわからない人間に刑罰が与えられてしまうかも知れないという恐怖に震えるだろうと思う。裁判よりもむしろ、さらなる捜査を望むかも知れない。
http://d.hatena.ne.jp/zaw/20080228#p1
 僕の法律に対する無知なのかも知れないけれども、この国の法廷で「疑わしきは被告人の利益に」という推定無罪の原則が守られているようには思えないのだ。瓜田に覆を入れずとは言っても、やはり裁く側は強大な力を持っていることを自覚し、罪を与えるという行為にはこの上ない慎重を期さねばならないと思うのだ。
 冤罪の可能性を残す事件のうち、冤罪では無いものももちろんあるのだとは思う。だんまりを決め込んだもの勝ちでいいのかという意見もわからないでもない。しかし、あくまで「推定無罪」の原則が、「疑わしきは被告人の利益に」という原則があるのであれば、有罪に疑問を感じる人間が多く出てくるような時点で、その裁判は原則を無視しているようにも思えるのだ。
 科学捜査にも絶対は無いということを認識し、もっとオープンに鑑定が行われるべきであるし、証拠や証言の採用が偏ることも避けなくてはならない。自白偏重も、代用監獄も、判決前の安易な自由の制限の問題も解消されなくてはならない。裁判所は、もう少し警察・検察から距離を置かなくてはならない、と思う。
 僕は残念ながら、裁判所を心の底から信用することはできないし、現状での裁判員制度導入が、種々の問題を解決するとも思わない。自分が冤罪で苦しむかも知れないということだけでなく、今現在冤罪で苦しんでいる人間が多くいるであろうことが怖くて仕方ないのだ。
 過失犯と故意犯の区別がつかないだけでなく、あまつさえ、人を救おうとして救えなかった人まで「殺人者」のように扱いもするこの国の裁判所が怖くて仕方ないのだ。