「新入生」-0579-

 うっかりしていたら大学院生になっていました。巨大政令指定都市で、無駄に高い家賃を払って1年間すんでいたアパートを引き払い、久しぶりだけど、もうすっかり馴染んでいる大学のある街へと戻ってきたのです。

 いわゆる他の理系大学と医学部が根本的に違う点として、医学部では僕らはほとんど基礎的研究の方法を学んでいないということが挙げられます。他の理系学部であれば、学部のうちから研究室に配属されて、研究テーマに沿って論文をまとめ、卒業論文として発表するという一連の儀式を行うわけですが、医学部は臨床実習こそするものの、卒業研究の類は無くて、みな一律に必修の講義を受けて、卒業試験に臨むということになります。

 もっとも、遙か記憶をたどれば、薄切標本の作り方とか、電気泳動とか、PCRとか、そんなことを学んだり、実習で少しはやったような気もするのですが、今、大学院に籍をおいて、研究者の端くれとして何か行うのは、到底無理な話です。ままごとを何度かやったあとで、いきなり懐石料理を作れといわれているようなものです。

 そんなわけで、研究を始めるとはいいながら、途方にくれているうちに、4月も残りわずかとなっていたのです。そして、研究は始まっていないのにも関わらず、なぜか僕の生活はかなり忙しく、それだけで濃密に完結している、という不思議な事態に陥ったのです。

 新研修医制度が始まって2年目。卒後2年間の臨床研修を義務付けたそれによって、この2年間は研修医が医局に属することはなくなりました。一昨年入局し、今年3年目になる医師たちが、ずっと医局の一番下っ端として働いています。退局者はあるのに、入局者は無く、研修医の労働条件についていろいろ叫ばれるようになったけれども、具体的な解決策は無い。結局労働は減らないまま、人だけが減っていきます。いくら時間外労働をするなといわれても、じゃあ、急変の患者を放っておいていいのか、という話になります。9時5時じゃおわらない手術だっていくらでもあります。結局、僕らも含めた若手医師たちが、かつての研修医の仕事も含めて背負い、なんとかしているのが現状です。

 大学の外にも、たくさん病院があります。多くの民間病院は、常勤医師の数がそれほど多くなくて、毎日誰かしら当直をおくとなると、常勤医だけではやっていけなくなります。大学というのは、比較的多くの医師を抱えている場所なので、そこから当直などのためにバイトの医師を派遣してまわしているのが現状です。また、このバイトというのは、比較的高額なことが多いので、給料の安い大学病院の医者や、収入の無い大学院生が、週に何度かバイトにでるということで、双方の利になっていました。

 ただ、どうもそのバランスもおかしくなってきているようです。当直や外来、検査、手術の手伝いと、かなりの需要があるにもかかわらず、大学にいる医者の数は年々減ってきています。来年、新研修制度を終えた研修医が、我々の仲間になってくれるようであれば、状況がいくらか変わるのかもしれませんが、先行き不透明です。医局も、過剰なバイトをなんとか断りながら、それでも断り切れないバイトを、病棟医と大学院生で割り振っています。

 おおむね、週に一回は、定期で日勤、当直に出ます。あとは、たまに週末に当直に出ていればよかったのです。それが、関連病院の常勤医が体調を壊したりなど、いろんなことが重なったために、平日も週末も凄い勢いでバイトが回ってきて、大学院生は、みな月の半分くらいどこかで当直しているような状態になっています。また、大学病院では無給ですが、臨床に関わることを許された大学院生としての立場で、内視鏡検査と外来を担当し、たまには病棟や手術を手伝うのです。その合間に研究することになるのでしょうが、実験の手技を教わろうにも、その相手もまた、外勤行脚状態で、なかなかみんなで一緒に研究室にいるという状況になりません。

 週末当直して帰り、月曜日に手術を手伝い、標本を整理し、火曜日に内視鏡検査をして、水曜日に外勤にでかけて当直、木曜日には外来に出て、金曜日に実験でもと思っても、イレギュラーの当直がほぼ毎週当たっている、そしてそのまま土日のバイトへ。なんだか非常におかしな状況になっています。多分大学にいる人間の中で、一番収入が多いのも大学院生なんだと思います、おかしな話なのですが。

 そんな生活をしながら、一応学生なので、授業もあるらしく、単位取得予定表を提出してみたり、いくつか論文を探して読み始めて、研究を始める準備をしたりはしています。月末に研究会が行われ、そこでもう少し具体的な方向性が見えてくる、はず、です。

 まあ、いろいろ考えて選んだ道なので、行けるとこまでは行ってみたいと思います。