「僕の前に道は無い」-0068-

 高村光太郎は、目の前に道など無く、歩いた後ろに出来ていくものだといった。魯迅は、通る人が多ければ、そこが道になるといった。同じ事を言っているようで、全然違う。

 勉めることを強いる勉強という言葉が嫌いだ。学び習う学習をして行きたい。

 若いという字は苦しいという字に似てると歌われたが、似て非なるもの。苦しいことをうまく変えて若いという字が形作られる。若い時の苦労は買ってでもしろという。かと言って、意味のない苦労はしたく無い。先に目指すものがあれば、苦労だってなんだって買って出る。

 おととい節分を感じたのは、コンビニで売られていた豆だけ。昨日は雪の立春、弟の誕生日。私はまだもう少しだらだら学生をやるのだが、弟の方が、ちょっとだけ早く社会に出る。

 そう言えば、小さい頃、水戸黄門の「後から来たのに追い越され、泣くのが嫌ならさあ歩け」という歌詞が、祖母の口癖で、唯一のしつけだった。人がつくった道を着いていくのは、泣くほど悔しいことなのだろう。悔し涙すら失うことは、もっと辛い。自分の道を見失っても、魯迅の大通りは辿りたくない。そこには何もないはずだから。