「偽医者」-0581-

 先日、偽造医師免許コピーを用い、八年以上の長きにわたり、医師として医療行為を続け、年収およそ2000万円を得ていた偽医者が逮捕されたとの報道がありました。約20ヵ所の医療機関に従事していて、外科手術以外の大半の医療行為を扱っていたようですが、医療事故を起こしたことはなかったといいます。こう報道されると、医療行為ってなんだか簡単みたいですが、どうなんでしょうか。

 合法手段で医学部に入ること自体が最も狭き門であって、医療行為は、難しいことを避ければ、誰でもできるってことなのでしょうか。無論、本当は医療行為が簡単なわけはないのでしょうけれど、明らかに難しそうなものを除外していって、本来なら医者がどうこうする以前に、家庭や社会で年長者が経験に基づいて、「それくらいなら大丈夫だよ」「それならこの薬が効くよ」って言っていたようなレベルの話ならば、偽医者にでもできるのでしょう。ただ、今はもう本当になんでも病院にやって来るので、その中で本当に病院が必要な人をフィルタリングするのには偽医者というのは存外あっているのかも知れません。単なる風邪とかそんなの、医者が診ようが診まいが勝手に治るわけですし、よほどひどいことをしなければ、適当な治療でも、あとあと問題になりにくいと思います。そして、どのみち治るのであれば、よく話を聞いてくれる医者のほうが名医のように感じられるでしょう。

 件の偽医者が、外科的手技を避けていたのは賢明だったのでしょう。できるできない以前に、なにかおきたときに素性が分かってしまう可能性を恐れたのでしょう。そして、難しい症例をさけて、適当にバイトで病院渡り歩いていたほうが収入が多くなるという矛盾も浮かび上がってきます。僕も直ちに医局をやめて、手術とか研究とかほっぽり出して、医者不足の病院の非常勤を渡り歩いて、面倒くさい症例は大きな病院に送っちゃって寝当直、という生活を続ければ、多分2000万円くらいもらえるんだと思うのです。真面目に働いているほうが、収入は少ないというおかしな現象。でも、これが現状なんですよね。以前も何度か、医者の摩訶不思議な給与体系については触れてきました。僕も現在、大学で外来や検査、時には手術を手伝っていますが、そこに給料は発生していません。逆に、大学院生として、年間50万円くらいの授業料を納めています。

 少し脱線しますが、例えばご老人のサロン化したような病院では、調子が良かろうが悪かろうが、いつもと同じ注射をして、同じ薬を出すことを求められたりするのですが、ここにあんまり真っ当な医学的見地を持ち出して、不要な薬を削ったり、患者さんの求める注射をしなかったりすると「あの医者は冷たい」だの、「頼んだ薬をくれない」だの言ってダメ医者のレッテルを貼られます。そういう病院に、たまに外勤に行くような身としては、かなり自分を押し殺して、患者さんの言うがままに薬や注射を指示するしかなくなったりもします。

 乱暴に言えば、そこに医学的見解が入り込む余地がほとんどないこともあります。患者さんにとってはそれで心が癒されるのだからいいではないか、といえばそうなのかも知れませんが、そこにマンパワーも資源も予算もとられてしまって回らなくなっているのが日本の医療です。老人だから負担を軽く、若い人に負担を求めるということではなくて、最低限必要な医療はどんなに貧しい人でも受けられるようにする一方、ご老人の趣味のような点滴は実費をとったっていいと思うんですよ。

 現在、どの病院においても、自分が診療の全責任を持つという立場にありません。そうなると、自分が最初から最後まで診るわけではないし、自分一人が突っ張ったって、他の医者が元の処方や注射を指示すれば意味が無いし、結局はその病院の暗黙のルールとか、院長の方針とか、地域性とか、そんな流れに左右されていくのです。そして、往々にして、患者さんはそれに満足するのです。

 さて、こんな状況下で、医者が患者さんの言うなりに機械的に前回来院時と同じ指示を出し続け、たまに検査をすすめたり、血圧や採血のデータを踏まえて処方変更や精査をかなり丁寧にすすめても、かたくなに新しいことを拒む人は多いのです。こういうところでは、自分の意志を一切入れない偽医者がかえって歓迎されるかも知れません。自分にやましいところがあるから、決して患者さんに強くはでないでしょうし。まあ、この場合、初診が診られませんけれど、いくつかのパターン認識でも、薬や検査のオーダーくらいはできるでしょうし。また、「素人」目にみておかしな人は他に回したり、いくらでも手段はあったのでしょう。

 こういった病院において、患者さんにとっての名医の条件としては、話を丁寧に聞き、症状をきちんと治してくれるというものの他、単に患者さんにとって都合がよいというだけの部分も含まれているような気がしています。すなわち、患者さんの言うがままの検査や投薬をし、望みどおりの診断名を付けてくれるというようなものです。

 逆に、どんなに医学的に正しくても、患者さんの意に反することをするのはダメな医者だ、ということになるのでしょうか。医者の提案を拒否するのであれば、その結果も含めて責任を持ってもらえるかと言えば、そうでもないのが現状です。昨今の報道をみると、親身に医学的に正しいことをしようとしても突っぱねられたとして、それでもなんとなく体調が維持されていればいいのですが、あとになって体調に問題が出てくると、説明義務違反とかなんとか言って叩かれるようですね。

 現状では、多くの人が「自分にとって都合のいい名医」を探しているような気がします。そして、こういう人々は、自分に都合のよくないことは、それが医学的に正しいことだとしてもきく耳を持たない上に、突然感情論みたいな話に転換してきて「でも、医師たるもの、心も癒すべきだ」とかなんとか。病気ではなくて人を診よ、というのも使い古された警句です。もっともだと思う一方、僕は果たして目の前の人間全てをみて、理解し、全人的に癒してあげられるような超人なのかといえば、そこまで思い上がっていないのです。僕は所詮、人に対して、その人が持っている病気のことを、素人よりはよく知っているだけにすぎません。宗教や哲学が医学と一体だったころは、まさに人をまるごと癒せたのかも知れませんが、僕にはそこまでは無理だと思っています。そう思うからこそ、自分のできる範囲、せめて癒せる病を癒したい、と思うのです。

 僕も青臭い思春期には、そういう精神世界を大事にして、「医は仁術」という言葉を自分に都合のよいように解釈していました。拙著「お医者のタマゴクラブ」にも次のように綴ってあります。

『もちろん、患者に辛くあたれと言うわけでは無く、知識不足を人情やら愛情はカバーしないということなのです。正確な知識を身につけた上で、人間味が問われるのであって、言葉通り、人情で病気が治るなら医者はいりません。医は仁術という言葉を間違って解釈するのは危険です。仁術は確かな技術が裏打ちせねばなりません。』

 例えばですね、来院された患者さんに対し、ひととおりの診察をした上で、この状況であればこういう検査が必要です、とか、こんな薬が必要です、と説明するとします。もちろん、ある程度、患者さんに選択の幅はあります。多少治るのが遅くなってもいいから、なるべく薬は控えたいとか、その検査はもう少し様子をみたいとか。医者は、その話をきいた上で、譲れない部分は譲れない部分として再度呈示します。このあたりで、「自分にとって都合がよくない」方向への流れに対し、怒り出す患者ってのがいるのです。

 対した症状じゃないのに夜中にやって来るような患者さんに、諭すように「次回以降、もしこういう症状でしたら、少しご家庭で休んで様子を見て頂いて、その後も症状が続くようであれば、診察時間内に受診してください」なんて説明すると、「そんなこと言ったって、素人には体のことなんてわからないし、重症かそうじゃないか判断できない。心配なんだからいつ来たっていいじゃないか」と怒りだすくせに、同じ人が「診察の範囲内で、こういう状況ですから、この検査と薬は不要です」という説明には、「俺が欲しいっていう薬をなんで出さねえんだ。俺の体のことは俺が一番よく知ってるんだから、ガタガタ言わないで、あれとこれを出せ」と叫ぶ救急外来。

 僕らも人間ですからね。やはり気持ちよく診察したいんですよ。もちろん、病院は診察に対してお金を頂きますが、別にもうけようと思って救急外来をあけているわけではないところが大部分です。マンパワーにも医療経済にも多大な負担をかけ、緊急事態に備えているのであって、夜の方がすいているからとやって来る患者のためにあるのではないと思います。僕は聖人君子では無い、小さな小さな人間で、それなりの善意やボランティア精神は持っていますが、自分がどうなっても厭わないという、完全なる慈善の精神を抱いているわけではありませんので、「お金出してる患者様に対してなんだその態度は!」って偉そうにやって来る患者の神経が全く理解できません。まあ、もちろん診察はしますけれど。応召義務もありますし、適切な医療をしなければ健康を損ねるので、基本的にはどんな人に対しても同じ医療をしているのです。

 以前、謝礼金に関しての記述をした際に、同様のことを書いたことがありましたが、基本的に僕らは、罵声を浴びせてくる相手にも、無理矢理現金を握らせてくる相手にも、同じ医療をするしかありません。ですから、別に謝礼はいりません。かといって、罵声は、もっといりません。「ありがとうございます」なんて言われるだけで、相当嬉しくなれるんですよ。同じ医療を受けるなら、お互い気持ちよく受けたいですよね。医者が患者に怒鳴られながら「心まで癒してくれ」って言われても、そりゃ無理だと思います。自分に余裕がない人が、人にまでそんなに優しくできないし、人間対人間として医者と患者が対等であったとしても、医学医療に関しては専門知識を行使してもらうわけだから、そういう点は素直に医者を認め、感謝してもいいのではないでしょうか。医者の側から言うとなんかいやらしいですが。

 一連の報道の中で目立ったのは、「偽医者が捕まると、患者はみんな、あんな親切な医者はいないと言っていた」というもの。「なぜ偽医者がばれなかったのか考えるべきだ」と。もちろん、態度などの部分で、僕らが考えを改めなくてはならない点は多いと思います。ただ、以前も述べたように、偽医者は、ただ単に「患者さんに都合の良い医者」として優しいということもあると思います。欲しいといった薬を全部出したり、望むままに検査や点滴をするってのは決して正しい医療ではないと思うのです。そして、現場の医者からみていると、昨今の医療バッシング報道では、本来僕らが改めなくてはいけないことと、単なる患者さんのワガママや言いがかりのような要求を混同しているように感じるのです。