母を見送る

 先日、ついに還暦を迎えることのできなかった母を見送りました。血液腫瘍に対する治療によって、一度はCR(完全寛解)に入っていたものの、2年を経て再発し、その後厳しい経過をたどる結果となりました。

 再発の診断が下った時点で、ある意味主治医よりも先回りして、「治療がうまくいけばそれで良し、しかしそうでない可能性も考えたときに、いよいよの時には何もできないのだから、今から考えて悔いのない形で身の回りの整理をしておいた方がいいと思う」という話を母としていました。

 普段、僕が大学で診療している消化器癌の患者さんにも、かなりの進行癌であったり、再発の治療に入るような方には、治療をしないという選択肢も含め、もちろん良い方向へ向かうことを祈っているけれども、そうでない時のことをしっかり考えておいたほうがよいというお話を、できうる限りさせて頂くことをかねてより心がけていますが、それと同じことをしたわけです。

 母は長年、とある業界で長らくパートで働き、退職する前のほんの短い期間を正社員として働いていました。様々な人の勧めや支え、応援もあり、数年前に、小さな会社を立ち上げ、なんとか軌道に乗せたところでした。我が家は今振り返って考えると、決して裕福ではありませんでした。目に見える資産とかそういうものは何もなかったのですが、常にまわりにはいろいろと助けてくれる方々が少なからずいてくれたようにも思います。そうした方々の存在はいつも意識していましたし、大いに感謝しています。もともと母の会社は、一代限りで店じまいをする、母の人生の仕上げとしての挑戦という位置づけでした。しかし、店じまいするにはまだまだ早いこの時期に、母の人生の方が先に幕を下ろすこととなってしまいました。

 もとより、人様に迷惑をかけるということを何よりも嫌う性格で、会社のことが何の整理もつかないままこの世を去ることは耐え難いという人でした。そうした母の思いを感じていたからこそ、癌に携わる一医師として、そして息子として、かなり早い段階から、母にいざというときのための整理をしつこいくらい勧めていました。病気がうまく治れば、笑い話にすればいいのだから、と。

 最初は全くピンと来ていない様子で悠長にかまえていた母でしたが、再発に対する化学療法を重ねる段階で、「もしかしたら今日が今後を含めて一番体調が良い日かも知れないと思って下さい」という言葉の意味を理解し始めて、治療と治療の合間に取引先を回るなど、自分の悔いのない形での会社の引き継ぎということを強く意識し始めていました。

 骨髄内で腫瘍が暴れていた母にとって、治療は副作用を伴うものであると同時に、明らかな緩和の医療でもありました。もちろん、治療をやめる選択肢も含め、私からも説明しましたし、主治医からも論文まで持参して頂き、丁寧に説明して頂きました。その上で、母が望んだのは、会社をきちんと引き継げる形にするまでは何としても生き抜く、治療を受け続けるということでした。

 昨春から再発に対する治療を開始し、どうも効果が芳しくないと思われた夏頃には、僕は医局を辞めるということを迷いなく考えていて、母にもその気持ちを伝えました。当初母は、自分のことが原因で、僕が大学を離れてしまうということを非常に気に病んでいました。しかし、僕が医局を辞めるということを考えたのは、必ずしも母の病気のことだけではないと思っていて、そのことについては以前もいろいろと書き綴ったかと思います。

 会社のことに限らず、いままで母が一手に引き受けてくれていた実家のもろもろのことを、今後僕が引き継いでいくことになります。会社の役員に入るという話は全くの後付けの話でした。吹けば飛ぶような小さな会社ですが、商社と取引をさせて頂いており、そうした取引先との関係や、ほんの数人とは言え、雇い入れているスタッフのことを考えると、母の愛した会社を無責任に畳んでしまうわけにもいかず、母の勝ち得た信用を維持するためにも、実の子である僕が会社の株式を引き継ぐという形が自然だろうという話がありました。大学の身分を離れれば役員として勤めることも可能であるため、大学を退職後、会社の役員となることとなりました。実際には、これまでも会社を支えてくれたスタッフのみなさんに現場をまわして頂き、社長職もお願いする予定です。医師の仕事に関しては、落ち着いたらまた再開を考えていますが、もろもろの整理がつくまでは、一時お休みさせて頂く所存です。

 これもまた、僕らしい選択だと思いますし、特に迷いもない決定でした。これからのことは、まあ、ゆっくりと考えてみます。