「クラス替え」-0427-

 クラス替えとか席替えとかいう行事は大好きだったように記憶しています。人一倍ドキドキしながら新たな出会いを待った反面、友達の友達といった輪の広げ方を使えない、全くの新しい世界を怯えるようなところもありました。

 僕の通う幼稚園から、同じ小学校にあがったのはたしか2人か3人で、しかも同じクラスからは誰も一緒には進まなかったのでした。1年1組1番の名札をつけて、僕は極度に緊張して、給食ものどを通らなかったりしたものです。

 学区の狭間のような公立の小学校から、僕らは三つの公立の中学校へ分かれて進んでみると、他の小学校は、全部同じ中学校に進んでくるという環境で、少数派の新参者である僕は、やっぱり妙に緊張して、休み時間の身の置き場に困ったりしたのです。多感な時期を越え、やはり公立の高校に進むと、そこは今までで一番雑多な環境で、クラスのみんなが、それぞれ新参者でした。みんなが自分の居場所と役割を真剣に模索して、貴重な十代の時期を過ごしたのです。

 大学には全くの一人でやってきたけれど、緊張はいままでほどじゃなくて、きっとそれは、僕の中で、いくらかはココロが成長したからだろうと考えるのです。クラス替えも席替えもなければ、強制的に誰かとつきあわなければならないという事態も減るし、いろんな意味で大人になった僕らは、距離を持った人付き合いも覚えるわけで、緊張感をそれほど感じなくてもだらだらと6年間が過ごせたのでした。

 研修医としての居場所を、出身大学にそのまま残した僕は、もちろん別の形では存在したのだけれど、小中高校時代のような緊張は持たずに、大学7年生としての一年間を過ごし、何かと面倒くさいしきたりだらけの大学を去る日を指折り数えていたくせに、いざまた一人で大学の外へ飛び出すことになると、1年1組1番の名札を付けた日の緊張を思い出したのでした。

 大学で同期で働いた研修医は4人で、みんなそれぞれ関連病院に散っていきました。何かの飲み会の時に、新人4人で一緒に、先輩医師に写真を撮って貰い、そのできあがった写真を、「これからなかなかこういう写真は撮れないだろうから」と、人数分焼き増しして貰ったことをふと思い出します。

 退職手当として金58,655円を支給する、という文面も内容も無愛想な紙切れが、大学を去るに至って最後に貰った公式文書。エイプリルフールの日に新しい辞令を貰って、大学から車で一時間走ったところにある某病院外科に勤務して一週間がたちました。

 同級生、なんていう人はいないわけで、大学のように後輩が入ってくるわけでもなく、このあとしばらくは、常に新人としていろんな病院を回るのだと思います。大学では一人でやったら怒られそうなことを、ここでは一人でできなきゃ怒られます。極度の緊張の中、とりあえず3件のIVH(中心静脈栄養)は割とスムーズにいったものの、注腸は相変わらず渋い出来だったし、実は初めてだった胃透視は、なんとも言い難い前衛的作品になりましたが、僕は元気でやっています。