執刀医について

手術というものについて、一般の人がおそらく理解しにくいと思われることについて。
外科部長と研修医が二人で手術をするとして、外科部長が執刀医だった場合と、研修医が執刀医だった場合、どれくらいその手術に影響があるか、ということ。この場合、当然執刀医にならなかったほうは第一助手(術者の前に立つので、「前立ち」と呼ばれる)となります。
実際は、この前立ちというポジションも執刀医に匹敵するくらい重要で、常に術野を展開していき、術者が切るべきところを示し続けます。
外科部長が執刀医であった場合、次に手技を行う場所を指導し、あるいは自分で鈎を引いて展開し、それを前立ちに維持させ、手技をすすめることになります。
逆に、研修医が執刀医であった場合、研修医の理解度と習熟度にもよりますが、外科部長が道を指し示し、ここ掘れワンワン状態、操り人形状態で術者が動いていきます。
また、別に実際にメスで切るという行為を行うのが術者とは限りません。術者が切るべき組織に鉗子を分け入れていき、鉗子に持ち上げられた組織を電気メスで切るのは通常前立ちの仕事ですし、術者が示した結紮すべき組織に実際に糸をかけて結紮するのは前立ちの仕事です。
無論、糸結びやメス、ハサミの扱いがまずいとか、深部結紮などでやや難解な場合は、その手術の責任的役割の人間がそれをこなすでしょう。この場合、術者であっても、前立ちであっても外科部長が行うと思います。そういう意味では、術者と助手の行う手技の境目ってのは非常に曖昧な部分もあります。本来は、術者が手術を先導する、ということになるのでしょうが、実際の舵取りが前立ちだったりすると、もはや術者の位置に立っているということくらいしか術者としての存在の意義がなくなっていたりします。
また、最終的な手術全体の進行は、この場合、いずれにしても外科部長がとると思います。研修医に全く責任がないということではありませんが。
手術の執刀に何らかのテストが必要、というのは正しいとは思いますが、実技試験があるとしても、実際に執刀してみて練習するしかないので、合格の前に未熟な医者が執刀するのは避けられません。
問題なのは、執刀する人というよりは、指導的役割の人間の存在ということになってきます。例えば、大まかな手技はこなせるようになった、5年目くらいの医者2人で手術をする、って状況のほうが、場合によっては、研修医執刀、部長監督という手術より危険だ、ということです。
執刀医に、執刀経験が何例あるかと聴くのはあまり意味がないかも知れません。僕が胃癌の手術を何十例やった、といっても、あくまでそれは指導医のパペットとしてであり、僕が最後まで完全なる責任を持ってこなした手術ではありません。かえって、その手術をはじめてやる執刀医のほうが、前立ちがかなりしっかりした指導医であるので、安全ということにもなります。
では、この執刀責任者のポジションが、なんらかの実技試験によるか、というとそうではないです。ただ、おおむねほとんどの外科系医師は、自分の実力を越えると思われる手術には、それを得意とする医者の助けを借りています。外科部長が執刀するとしても、普段胃や腸ばっかり切っている医者が、肝臓の手術をするとなれば、肝臓の専門家に手術に参加してもらいます。そして必ず、複数の目で手術を監督、進行し、執刀医の独善だけで創が閉じられるということはまずありません。みんなの目で縫合部や出血の有無を確認するし、医者以外にも、看護師や医療機器の技術者やら、いろんな目があるので、滅多なことはできません。決して密室でのできごとではありません。
自分が手術の監督的立場になるまでに、通常何年もかかるし、その間、数多くの先輩医師の助手をしたり、あるいは先輩に前立ちしてもらって執刀したりします。おおむね、この間に自分でも、どれくらい手術をこなせたかはわかるし、相当の人数に監督されるわけで、未熟なまま難手術に突入するということは、報道のイメージほど行われていないと思います。
ただ、あくまで生き物相手の手技ですから、個体差、症例による差、合併症の有無などで、同じ術式でも難度は相当かわるし、100%安全で完全な手術なんてありえません。
不幸な転機をたどった症例が本当に手技の問題だけなのかといえば、そんなことはないわけです。当然、術前術後の検査や管理も外科医の重要なスキルですが、これにも絶対的な正解というのは存在しないわけです。言い忘れましたが、術式の細かいところは個人や施設によって様々ですし、これにも絶対的な正解ってのはないと思います。
最近になって、特に腹腔鏡下手術に関してのみ、技術認定審査が話題になったのは、言葉は悪いかも知れませんが、慈恵医大青戸病院での医療事故に対するポーズ的なものを感じます。あれは医療ミスというよりも、報道されている範囲では、悪質なものを感じる非常にレアなケースだと思うんですが。
なんらかの実技試験は望ましいのでしょうし、それで危険な医者を排除するのは理想だとは思います。ただ、具体的に実技試験をどう行うのか、どういう評価をするのかということになると相当やっかいだと思います。手順も結果も決まった操作を評価するわけではないので。すべての手術がそうした実技試験の対象にならないで今まで来たのは、そういう理由もあります。手技が比較的典型的である腹腔鏡下手術でならば、なんとか評価できるかも知れないということなのでしょう。おそらく、まだ手探りでの評価です。今後どうなっていくか、興味深いです。