泥仕合

 医療の多くはいまだ経験論であって、何でもかんでも科学的な裏付けがあるとは言い難い。科学的な裏付けがあると思われていたものが、後に間違いだったとわかることもある。間違いだったとわかったのに、さらにまた後に、それも間違いだったということになるかも知れない。
 EBM(Evidence Based Medicine)という言葉がある。根拠に基づいた医療といっても、所詮はいままでの症例の蓄積の統計に過ぎないということを知っていなければならない。医学・医療の発達は、往々にしてその時点での常識を逸脱したところに生まれた。
 かと言って、全てを一か八かにかけて何をやってもいい、その結果に一切の責任を負わなくていいとは思わない。現時点で、「確からしい」情報を踏まえて、個々の症例に誠実に向き合っていくしかないと思っている。
 今回の新型インフルエンザの騒動をみていると、この国の医療のみならず、秩序だった社会生活を送っていくということに対して、一抹の不安を覚えずにはいられない。
 検疫が有効だったのか、無意味なパフォーマンスだったのか。マスクが有効なのか、はたまた全く無意味なものなのか。双方の言い分、それぞれ分からなくはないけれども、両極に寄ってしまうのは愚かなのではないか。所詮、既知の知見に基づいた、「確からしい」情報に過ぎないのだから。
 僕個人としては、検疫という試みや、隔離の試みというのは、未知の感染症に対して正しい対応だったと考えている。感染症予防には、個人の自由が制限される。あくまで、感染者自身が重篤な状態に陥るかどうかとは全く関係なく、他人に感染を広げ、他人の健康を著しく損ねる可能性があるということが問題になるのだ。強毒性ではなかった(らしい)、致死率はそれほど高くない(らしい)というのは結果論であって、その結果をもって、検疫や隔離を叩くのは間違っていると思う。
 様々な医療に対する知見を科学的な根拠に基づいて冷静に発信してきたような人々が、マスクについて、一方では効果があるといい、また一方では無効だといって微妙に仲違いをしている。僕は、マスクには一定の効果があると思っているし、少なくとも「欧米ではマスクをする習慣がなく、日本人だけマスクをするのはみっともない」という根拠でのマスク批判というのは愚かだと考えている。無論、大騒ぎのあまりマスクの買い占めに走り、本当に必要な人に行き渡らなくなったり、マスクを過信するのは危険なのだけれども、「咳エチケット」を実践したり、自分が咳をしていなくても、「飛沫感染」を防ぐのには一定の効果があると思うし、論文報告もある。マスクの過信や、過剰な買い占め行動を抑制するために、「必ずしもマスクでは防げない」ということを啓蒙するのが、マスク不要論者のとるべき行動で、「マスクするなんてバカ」ともとれるような「専門家」の発言は、あまり社会的に有益なものではないと思うのだ。
 今回の騒動で、この国はつくづく原因とか責任を個人に帰結させることが大好きなんだと感じた。確かに、感染症というものは感染源があって、それが広まる経路がある。感染が限定的なうちは、そうしたことを特定するのは非常に重要なことであるけれども、ある程度広がってしまったら、感染者(かも知れない人)に対応するためのシステムを動かすことが重要である。「検疫」という発想自体は間違っていなかったとは思うけれども、国内発生期、蔓延期に相応しい対応に移行するやり方は、多くの批判のようにおそらくまずかったとは思う。また、そのあたりが煮え切らないばかりに、「感染蔓延地域」への渡航ということが偏重されすぎている。おそらく、今報道されている地域以外にも、新型インフルエンザの患者は多く存在するだろうと思う。僕の働く地域でも、ところによって季節はずれのA型インフルエンザの流行があるようだ。しかし、原則、「感染蔓延地域」への渡航歴が無ければPCR(新型インフルエンザかどうかの遺伝子検査)にはかけられていないという。
 感染者を「穢れ」として扱い、プライバシーに踏み込みすぎた報道をするマスコミと、おそらく潜在的にそれを求めている世論。感染をするに至った経緯をバッシングし、感染者個人を責めるような一部の人々。科学的な感染症対策ということとは全く別の次元での、「穢れ」を避け、「穢れ」から身を守る儀式。そうなることを恐れ、「新型インフルエンザの発生」を発表したくない自治体。「検疫」は「マスク」は「隔離」は「集会自粛」は、それに伴う経済被害は、一体誰に責任があるのだという魔女狩り。怖い。
 誰のせいでもないことって、たくさんあるんだと思うよ、僕は。