「かっこよく生きよう」-0093-

 久々に弓をひいた。春には大きな試合を主管する。雑務に追われるが、まずは落ち着いて弓をひいてみるのもいい。大した運動にはならないが、弓道、伊達に「道」を名乗っていない。その深さを感じると心地よい。道であることを忘れた雑念の弓は、美しくない。美しさで魅せるのが弓の楽しさ。神器たる弓自体が美しく、正しくひきわけるその動作が美しい。

 みんな結局美しさを求めるよね。人は顔じゃないとか、見た目ではないとか言うが、私はこれにいまひとつ釈然としないものを感じるのだ。外見も重要でしょ。なんだか、えらい僧侶がみすぼらしい格好で檀家を訪問したら追い返され、そのあと見事な袈裟を着ていったら歓迎されたので、僧侶は「私ではなく、袈裟が歓迎されたようだ」と言って袈裟を食事の前に脱いで帰ってしまう。…でも、この檀家の対応は最もじゃないのか。だいたい、袈裟という正装を欠いて檀家を訪れる坊主の神経がわからない。失礼じゃないのか。檀家を訪れる行為に対して、自分のできる最大限の「身だしなみ」を整えるのがスジじゃないのだろうか。人は顔じゃないって言っても、生まれ持った顔の善し悪しはどうにもならないが、それを最大限綺麗にみせる努力は素晴らしいことだ。見た目を整えるのもエチケットじゃないだろうか。説話にあれこれいうのも、結局お前は何も分かってないとか諭されそうだけど…。

 ミスコンの類をあそこまで罵倒する神経も分からない。絵の才能に恵まれて生まれて来れば天才ともてはやされ、その才能を生かしたい人はさらに絵を勉強する。コンクールで賞をもらったりして評価される。同じように、美しく生まれた人がそれを生かそうとするのにとやかく言うことはないし、その美を生かすため、エクササイズやエステ、化粧などの努力をしていくのは素晴らしい行為じゃないのか。美を評価する時点で、内面も評価するなんていうのはお門違いだ。学力が評価される場所も運動能力が評価される場所も別にちゃんとある。極端なことを言えば、日本の首相の名前が言えなかったところで、美を評価する以上は何の関係もないことだ。美という才能を持たない人間のひがみにしか思えないね、ミスコン否定組は。

 かっこよく生きる。この一言に尽きるのよ。おしゃれしたいひとは外見的なかっこよさを求める。試験に落ちるとかっこわるいから勉強し、バスケ上手かったらかっこいいから練習する。美学に向かって突っ走る人はみんなかっこいいよ。かっこよく生きよう。