「大団円」-0290-

 日本語って副脳を使わないと使えないんだそうですね。日本人が特に英語が苦手な理由は、他の多くの言語が副脳を介さない経路を持つのに対して、日本語は副脳を介する独自のルートをもつからであって、英語を日本語で理解し、日本語を英語で表現しようとすると、異なる2つのルートを使う故に、例えば英語とドイツ語の使い分けよりは難解になるのだそうです。日本語は表音、表意のための文字をそれぞれもち、絶妙に使い分けていますが、同じものを何通りにも表記できるっていうのは、とても高度なことだと思うのです。合理化という観点で見ればマイナスなんでしょうけど、万葉の時代から、言葉を慈しんできた日本なのです。言霊っていうのも現代日本にもやっぱり生きていると思うし、口をついて出た言葉は、すでに魂を持つというのは、誰しもが実感することではないでしょうか。

 眼科をラストに、1年かけてまわったポリクリと呼ばれる臨床実習も終結を迎えました。6年も学校に通う中で、特に重要視され、常に思い出に語られるというのは、ひとつには、学生は講義をさぼる性質を持っているもので、それが4〜5人の小班でまわる実習だと、さすがに出席せねばならず、6年のうちで、最も学校に来る時期だということがあり、もうひとつには、入学後初めて、社会性の必要性を感じなければいけない時だからであります。

 あるいは患者さんとのやりとりだったり、あるいはポリクリ班内でのコミュニケーションだったり、礼儀と親しみとストレスの間で、思っている事を何らかの形で、言葉として大気に返し、そのひとつひとつにみんなが喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、またその思いを吹き込み、表現したい形をつくるのです。

 評価スケールに当てはめる「コミュニケーションスキル」を嘲笑いながら、しかしそんなスケールが必要かも知れない現状がおそらく存在するのでしょう。白衣の威圧感とその本来の意味に気付かずに、醜いくらい大股で闊歩する医師が、実は将来の我々かも知れないと思う次の瞬間、隠語でささやかれる身内の特権意識があったりもするのです。

 あるいは、医学生対患者といった関係だけでなく、医学生とか医師とかいう立場に身をおいたことで、一段高いところにのぼれると勘違いした奴らが、しかし自分のまわりの人間が、みんな同じ条件にあるために、自分が決して敬われない状態を疎み、真に高いところにのぼった人間を、自らかがんでさらに下から見上げ、妬むことしかできなかったりするのでしょうか。

 ある何かが社会の縮図なのか、社会というものが小社会の集合に過ぎないのかは知らないけれど、孔子の時代から、問題とされることは大して変わってないようです。

 集束した実習。連日の宴会を終えれば、もう扱いは最高学年であり、正月なんかよりよっぽど身のしまる思いのするのは、私にとってきまって年度のかわる春なのです。